8月6日
2017年8月6日

「栄光を映すために」

創世記 2:18-15 コリントの信徒への手紙一 11:2-16


 コリントの信徒への手紙一 11章2〜14章にかけて教会の礼拝の秩序を乱すと思わ

れた三つの問題に対して「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(14:40)

とのパウロの指示が語られています。その最初が、女性は礼拝の時にかぶりものをす

べきだという指示です。その理由は「すべて男の頭はキリスト、女の頭は男、そして

キリストの頭は神」ということだからと言います。さらに、「男が女から出てきたの

でなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために作られたのではなく女が男のた

めに作られたのだからです。だから、女は天使たちのために頭に力のしるしをかぶる

べきです」と、よく分からない理由で、圧倒的な男性優位、男尊女卑とも思えるよう

なことが指示されており、驚かされます。イスラム教の原理主義が力を持っている国

や地域ではブルカやニカブ、チャドルといったかぶりものをすることが強要されます

が、わたしたちの教会の礼拝では、女性がベールをかぶって礼拝をするという習慣は

ありません。この聖書に記されているこのパウロの指示を、「信仰と生活との誤りな

き規範」と信仰告白しているキリスト者であるわたしたちはどのように理解したらい

いのか、これは難問です。

 このパウロの指示を理解するためには、コリントの教会の特殊事情について考える

必要があります。礼拝の秩序を乱す3つの事情は、このベールの問題の他、主の晩餐

を軽んじるふるまい、貧しい人や奴隷などを排除している問題、それに、礼拝の中で

異言を唱える人たちによって礼拝が興奮とわけのわからない言葉に支配されていると

いった問題です。これらは三つともキリスト者の礼拝がその時代の環境や他の人の目

から見て理解されないような形のものとなってはいないかとの反省を促しているとい

う点で共通しています。その時代的なもの、その教会で特に利己的なふるまいと見ら

れていたことが取り上げられているのです。教会では、一方で、キリストにあっては

「ユダヤ人もなくギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男もなく女もあ

りません」と、驚くべき解放と自由、革新性が語られ、人間的な権力、男性支配の社

会による抑圧や束縛からの解放を促してきました。その一方でこのような保守性、閉

鎖性が奨められるのはどうしてか。「すべてのことが許されている。しかし、すべて

のことが益になるのではない。すべてが許されている。しかし、すべてのことがわた

したちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を求め

なさい。…だから食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現

すためにしなさい」と、先に語られたことの中で生きることがここでも求められてい

るのです。


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