9月3日
2017年9月3日

「わたしを記念して」

申命記 4:32-40 コリントの信徒への手紙一 11:23-26


 コリントの教会の聖晩餐が正しく行われていないことに対して注意を促す中で、聖

餐式のたびに「制定語」として聴く言葉を告げています。ここで語られている一つ一

つの言葉を正しく聴くことが、正しく聖餐にあずかる第一歩となります。

 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身主から受けたものです。」パウ

ロは聖餐を礼拝の中で行うことも、聖餐の中で語られる言葉も、パウロは自分自身の

考えによってではなく、教会の中で受け継がれていること、その淵源は主イエスご自

身にあることを明らかにしています。主の教会があるところ、礼拝が行われていると

ころ、世界中どこでもこのように行われ、語られ、聴かれなければならないと告げる

のです。

 「主イエスは、引き渡される夜」に、パンと杯を弟子たちに分け与えられました。

この言葉によって聖晩餐の始まりの時と場が明らかにされます。聖餐の時に思い起こ

すべき出来事は、福音書に描かれる主イエス・キリストの十字架の死と復活・昇天の

すべての出来事でなければなりません。「引き渡される」という言葉は「裏切る」と

いう意味を含みますから、聖餐の時に想起することはイスカリオテのユダの裏切りや

ペトロの3度の否認ばかりでなく、すべての人の罪が主に転嫁されてゆく事態が思い

起こされ、わたしたちもこの言葉によって深い悔い改めへと導かれます。

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行

いなさい。」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度

に、わたしに記念としてこのように行いなさい。」古来より教会はこの主イエスの言

葉の重要さを意識して、多くの議論が重ねられてきました。プロテスタント教会は実

体的な変化という考えに対しては留保し、パンはパンでありぶどう酒はぶどう酒であ

ることに変わりないが、これによってしるしづけられているキリストの体、キリスト

の血のリアリティーを聖霊に導かれ、信仰において感じ取り、受けるべきであるとし

て、このサクラメントによって養われる実質的な意義を重んじてきました。このサク

ラメントにおいて重要なことは、「わたしを記念するため、このように行いなさい」

という繰り返し語られる指示です。記念をするのは、ただ思い出すということだけで

もなく、まさに体全体で、そのことを味わい、体得するということです。キリストの

体が確かにわたしの体となり、キリストの血がわたしの血となることを確証するので

す。

 パウロはこのサクラメントの目的は、「世の終わりまで主の死を告げ知らせること」、

ただキリスト者の命を養うためだけにあるのではなく、すべての人をこのサクラメン

トに招くことにある、と語ります。


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