9月24日
2017年9月24日

「一つの体となるために」
エレミヤ書 7:1-11 コリントの信徒への手紙一 12:12-26


「教会はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」パウロはコリント

の教会の礼拝の秩序と適切さに混乱を招いている「異言を語る人々の問題」を扱うに

あたって、ただ対症療法的に指示を与えるのではなく、「霊の賜物」の問題としてキ

リストの教会がなすべき根本的な問題の捉え方と解決の方向を示しており、後世の教

会が別の問題を扱う場合にも基本となる考え方を教えられます。

 そもそも教会とは何かを考える時、最も基本的なテーゼ、「教会はキリストの体で

あり、一人一人はその部分」と、教会を体にたとえます。それぞれの部分が違ってい

ながら体全体のためになくてはならない大切な働きをしているように、そこに集う全

ての人は体を構成している大切な肢体であるから、互いに配慮し合うことの大切さ、

そして、頭であるキリストのもとに一つになることを勧めています。このように、人

間の集まりである共同体を一つの体にたとえて、それを構成する各部分の働きの独自

性を尊重しつつ全体の成長と調和ために配慮すべきだとの教訓は、教会に限らずどこ

の組織においても良く聞かれるわかりやすい例えです。

 しかし、「教会はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言う言

葉は、あまりにもわかりやすい例えであるゆえに、その言葉が示している真理の核心

を捉え損なうことになっていないかと反省させられます。パウロがこのテーゼを語る

のは、「霊の賜物」をめぐっての議論の中で語っており、教会の一人一人に与えられて

いる霊の賜物、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言

する力、霊を見分ける力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力などを挙げて、そ

れらが一つの聖霊から出ているゆえに、「キリストの体」であると語るのです。それら

の賜物がどのように働くのか実際の姿を想像すると、皆一つになりようもないほど特

異な賜物であって、それは他の賜物を持っている人とは異なる極めて独立した存在で

あることを自覚させられるはずです。それぞれのカリスマが一つであり、一体のもの

と認識するのは、本人にも周囲の人にも体の例えで了解されるようなことではありま

せん。パウロは、教会がキリストの体であるのは「一つの霊によって、わたしたちは

ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由の身分の者であろう

と、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったので

す」と語ります。サクラメントの神秘、聖霊の働きがわたしたち一人一人をキリスト

に結び合わせ、一つの体にするというのです。違う個性のものが、その個性と働きに

よって「イエスは主」と心を一つにして告白する不思議の由来がここにある、と。


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