教会とは何かを考える時、「教会はキリストの体、わたしたちはその部分」という
定義が最もわかりやすくその本質を捉えています。教会は一人一人個性を持ち、様々
な賜物を持った人の集まりですが、この教会が礼拝共同体として、また奉仕の共同体
として2千年を超える歴史を重ねてきました。教会が一貫してキリストの教会と言え
るのは聖霊によって主イエス・キリストと一つの体に結び合わされた共同体であるこ
とによってです。コリントの信徒への手紙12章は教会がキリストの体としてのありか
たをわかりやすく語っています。教会がキリストの体として、体を構成している各部
分がそれぞれの独自の働きを持ちながら一体となって働くべきことが勧められている
のです。「目は手に向ってお前はいらないとは言えず、また頭は足に向ってお前はい
らないとは言えない」と語られるように、互いの存在の大切さを認め合うべきこと。
また、「体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要なのです。・・神は見劣り
のする部分をいっそう引き立てて体を組み立てられました」と、弱く見えるところに
こそ深く配慮すべきことが勧められ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に
苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分ともに喜ぶのです」と、教会が一つ
の体であれば、当然そこに集う者が喜びも悲しみも共に担い合う者とならなければな
らないことが教えられます。
教会がキリストの体であるのは、人間の体とその肢体にたとえて、教訓を引き出す
ためだけではありません。エフェソの信徒への手紙にも教会がキリストの体であるこ
とが強力に語られていますが、そこでは「キリストにより、体全体は、あらゆる節々
が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に
応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(4:18)と
あるように、教会が「成長する体」として生命的な存在であることが強調されていま
す。確かに教会はキリストの体であって、皆一つの体になるために洗礼を受け、皆一
つの霊を飲ませていただいたものなのです。ここで、使徒や預言者、教師、奇跡を行
う者など、教会の中にいろいろな賜物と職務を持った人が立てられていることを挙げ
ていますが、「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」と、
「教会は」・・・ではなく「あなたがたは・・・」とわたしたちに直接語りかけてい
ることに注意しなければなりません、「あなたがた」への呼びかけは、「わたしたち」
の応答を求めています。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る
上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る