12月3日
2017年12月10日

「主の道を整えよ」
イザヤ書書 40:1-11 マルコによる福音書 1:1-8


 アドヴェントの第2の主日に聴くみ言葉はマルコによる福音書の初めの言葉からで

す。この福音書はマタイやルカの福音書のように主イエスの誕生にまつわる物語から

始めるのではなく、いきなり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言う表題

の下に、バプテスマのヨハネの「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」の宣教活

動からはじめます。マタイにしろ、ルカやヨハネにしろ、福音書とは、イエス・キリ

ストの生涯の物語を描いたものですが、これを「福音の書」つまり、喜ばしい知らせ

が告げられている書、と表現したのはマルコが最初で、それ自体画期的なことですが、

さらにそこで書き記されるイエスなる人物が「神の子」であり、キリスト(救い主)で

あると明言して、その「神の子」の「人間として」の歩みがどのようなものであった

かを十字架の死に至るまで、また復活に至るまで、その生涯を、「福音」として描く

のです。

 マルコは、イエスがただならぬ人物であり、「神の子」であり「キリスト」である

ということが、人間の思い込みではなく確固たる根拠に基づいていることを明らかに

するために、バプテスマのヨハネの働きのことから始めます。その働きは預言者たち

によって預言されていたことを実現する働きであったから、というのです。預言書の

マラキ書には神による最後の審判が行われる前に、その到来を伝える使者が現われ、

道を備えることが記されていますし、預言者イザヤの書には「荒れ野で呼ばわるもの

の声があって、主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」との預言の言葉がありま

す。ヨハネの洗礼運動こそ、既に予兆され、神の計画にそった先駆の働きであった、

というのです。ヨハネは人里離れた荒れ野から、罪を悔い改めて神に立ち帰り、まっ

とうに生きるように人々に呼びかけましたが、ヨハネの指摘する罪は極めて日常的・

具体的で誰にも思い当たるようなことでした。この荒れ野の声に突き動かされてユダ

ヤの全土、エルサレムから等、多くの人が荒れ野に集まり、ヨルダン川でヨハネから

悔い改めのしるしとしての洗礼を受けたのです。マラキやイザヤに預言されているこ

とは、それぞれの預言者の生きた状況の中で語られたことで、これが直ちにヨハネや

イエスの宣教活動を指し示すものとは思えませんが、「荒れ野」や「道を備え、道を

真っ直ぐにする」というイメージとヨハネの洗礼運動の不思議な結合、これが神の子、

キリストであるイエスの働きの道備えとなり、福音の初めであった、と。

 主を迎えるためには、わたしたちの罪を悔い改めて神に立ち帰り、心の道を真っ直

ぐにし、バプテスマから始まる、と教えられます。


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