1月7日
2018年1月7日

「神の計画によって定められたこと」
エレミヤ書 31:7-14 エフェソの信徒への手紙一 1:3-14


 ルカによる福音書はベツレヘムの出来事に続いて幼子イエスは8日目に割礼を受け

たこと、33日目にはエルサレムの神殿に行き、律法に従ってきよめを受けたことを

伝えています。「山鳩のつがいか家鳩のひな2羽」という貧しい人たちのために定めら

れたユダヤの律法に忠実にヨセフとマリアは従ったのです。聖霊によって身ごもった

子どもの出産の汚れをきよめるのは変ですが、天において計画された永遠の計画は、

この世の現実において実現して行く確かな姿を示しています。主イエスも忠実な律法

の下にある民の一員として、その歴史と伝統のもとで人の子として生きるのです。

 この時にエルサレムの神殿でイエスとその両親を迎えた不思議な人々がいました。

二人の老人、シメオンと女預言者アンナです。「そのとき、エルサレムにシメオンと

言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルが慰められるのを待ち

望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死

なないとのお告げを受けていた」と語られる人です。老シメオンは、まさにユダヤの

民の信仰の伝統と歴史を一身に負う人、祭司や律法学者のように宗教の組織と体制を

保持する人ではなく、イスラエルの敬虔を代表する人です。この人が幼子を連れたマ

リアとヨセフが神殿に来るのを待ち構えるようにして迎えたのです。そして幼子を見

ると、それを胸に抱いて、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに

去らせてくださいます」と神を賛美します。

 このように主を賛美し祈るシメオンの信仰的実存とはどのようなものか、このこと

を思いめぐらすことによってわたしたちは多くのことを学ぶことができます。彼の生

涯の目的は「イスラエルの慰められるのを待つ」という信仰と希望において貫かれて

いました。この希望の中で生き、この希望に向って生きることが、透徹したまなざし

で他の者には見えないことを見る目を与えました。どこにでもいる生後一か月の赤ん

坊、毎日同じような目的で神殿にやってくる無数の子供と親の流れの中からイエスを

見つけて、大いなる感激をもって、「主よ、今こそ、お言葉通り僕を安らかに去らせ

てくださいます」と祈っているのです。「この目であなたの救いを見た!」と叫ぶこ

とができる幸いを彼は確かに見たのです。彼が見たものは何か。自分の腕に抱かれて

いる幼子、歩くことも話すこともできない何もできない幼子にすぎません。にもかか

わらず、彼はその幼子を通して、「イスラエルの慰められるときの到来を、神が万民

のために備えて下さった救い、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉

れ」を見たのです。これで自分は喜んで安らかに死ねる、とまで言って天を仰いでい

ます。聖霊によって導かれる希望はこのように老人の目を輝かせます。

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