1月28日
2018年1月28日

「異言ではなく預言を語れ」
イザヤ書 28:7-13 コリントの信徒への手紙一 14:12-25


 霊の賜物について、パウロは異言の霊ではなく預言の霊を求めなさいと勧めます。

初代の教会の集まりにおいて霊的な熱狂の状況があって、癒しが行われたり、奇跡が

起こったりと超常的な出来事が起ったことが使徒言行録にも記されていますが、その

中でも「異言」を語る人があり、これが特別な神の霊の働きを受けた人として重んじ

られるということがあったようです。異言は異常な高揚感の中で周りの人にも自分に

も何を言っているのか分からないような言葉が口から声が飛び出すことのようです。

これに対して、預言は同じように高められた心と権威のある言葉をもって神からの言

葉が語り告げられるものです。「預言は廃れ、異言はやむ」と言われる今日の教会の

霊の枯渇が心配される状況とはちがった状況ですが、霊の熱狂においても、そこに主

の聖なる霊と異なる霊の働きに注意しなければならないと教えられます。

 パウロは預言と異言の違いについて、そこで語られる言葉が人に理解できるもので

あるかどうかを問題にしています。「霊で祈り、理性でも祈るようにしましょう。霊

で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」と、感情の高まりだけで理性の働き

を経ない言葉は教会を造り上げることにならないというのです。理性よりも霊性を重

んじる教会の集まりにおいて、異言を重んじるより理性に従った預言を重んじるよう

に命じることは不思議な感じがしますが、ここに主の体である教会がどのようにして

造り上げられるかを知る大切なことが教えられています。教会で語られる言葉は、

「教会に来て間もない人、信者でない人にとって、『アーメン』と言えるような言葉

でなければならない」というのです。このように教会の集会は秘密結社のような交わ

りであってはならず、絶えず新しく来た人、まだ信者になっていない人に対して開か

れたもの、しかも、理解可能な言葉での祈りと賛美が交わされる場でなければならな

いということです。

 しかし、預言の霊も霊の賜物であって、単に人間の常識的なことだけが語られるの

ではありません。預言が語られるとき、「罪が指摘され、心のうちに隠していたこと

が明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに神はあなたがたのうち

におられます』と皆の前で言い表すことになる」と言う働きをするからです。神への

畏れ、罪への気付きと悔い改め、主への感謝と服従はわたしたちの礼拝の中でも繰り

返されることですが、預言は、まさにこの心を起こさせる聖霊の働きです。これは上

からの罪の指摘と叱責によって起こるものではなく、主イエス・キリストの贖いの恵

みの内容が明らかにされ、その福音がほかならぬ自分にも語りかけられ、呼ばれてい

ると信じる時に起こることです。このような魂の覚醒は、教会のみんなが祈り賛美し

感謝する「預言」の中で起こることだと教えられます。

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