2月4日
2018年2月4日

「すべてを適切に、秩序正しく」
申命記 4:5-14 コリントの信徒への手紙一 14:26-40


 コリントの信徒への手紙1・12章から14章で「霊の賜物」についての丁寧な教

えが続きましたがここでその結論が語られます。教会の集会の中で異言や預言など様々

な霊の賜物を持つ人が、それぞれの賜物を活かすためには「すべてを適正に、秩序正

しく行いなさい」と言うまことに常識的な結論が語られます。教会は「異言は廃れ、

預言や止む」と言われるような霊の枯渇と荒廃の危機と「霊の過剰と暴発」の危機があ

ることは絶えず経験することを長い歴史は物語っていますが、ここでは霊の暴発を制

するための適正さと秩序の感覚が求められているのです。

 この文章の中に、「婦人たちは、教会で黙っていなさい」という女性に対する極め

て差別的で高圧的な指示が出てきます。そこで語られていることの意味はその言葉自

体よく検討しなければなりませんが、この部分はパウロが書いたものではなく、後代

の挿入と考えられています。この部分を除いて文章を続けて読みむと、ここで語られ

ていることが自然の流れになって了解できるものになります。

 パウロの結論は「預言することを熱心に求めなさい。そして異言を語ることを禁じ

てはなりません。しかし、すべてを適正に秩序正しく行いなさい」と言うことです。

本論のところでは異言についてかなり否定的に語っていましたが、結論では、異言も

霊の賜物であって、これを禁じることができないことを明らかにしているのです。た

だ、教会の集会の中でわがもの顔に異言を語るのではなく、異言を語る者は2,3人

に止めるべき事、解釈をする人がなければ教会では黙っていなさいと自制を勧めるだ

けです。こうして、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆預言

できる預言できるようにしなさい」というバランス感覚が大切であることを教えてい

ます。

ここで語られていることで、初代の教会がどのような形で礼拝を行っていたのかを垣

間見ることができる貴重な情報を得ることができます。今、わたしたちが行っている

礼拝の形とはだいぶ違います。初代の教会では日曜日ごとに集まって使徒の教えを聞

き、パンを裂いたことは使徒言行録にありますが、ここでは、「詩編の歌をうたい、

教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する…」と具体的に集会で行われること

の内容が示されているのです。異言や預言を語る人は2人か3人の止めるようにという

のですから、ずいぶん長い時間がかかったでしょう。このような礼拝の様子から、わ

たしたちの教会の集会のあり方、考え方を学ぶことができます。礼拝はたくさんの霊

の賜物をいただいた人がそれぞれの賜物を発揮する場であって、一人の司式者や説教

者の演じるのを見たり聞いたりするだけの場ではないということです。同時に、それ

ぞれの賜物が生かされるために、互いに他の賜物を活かすための自制と配慮がなけれ

ばならないということです。自分ではなくキリストの体が立ち上げられ、宣教の使命

が果されることに向うものでなければならないからです。

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