パウロは主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事によって主イエスを信じ
るわたしたちにも死者の中からの復活の道が開かれたことを語り、ユダヤ人の間で語
り継がれてきた終末論の構図の中でこの出来事の意味を明らかにしています。「キリ
ストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。…アダムに
よってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かさ
れることになったのです」と語るのです。キリストの復活と言う出来事が単にキリス
ト一人に起こった一回限りの奇跡的な出来事なのではなく、全人類に波及する終末論
的な出来事であって、これは世の終わりの始まりだ、というのです。「そのとき、キ
リストはすべての支配、権威や勢力を滅ぼし、父である神に御国を引き渡されます。
キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで国を支配することになっているか
らです。最後の敵として死が滅ぼされます」と、終末に至る見通しの中でキリストの
主権が確立されると共に、「最後の敵として死が滅ぼされる」と、わたしたちの想像
を絶する構図の中でキリストの死と復活の事態が起こったことを告げるのです。
キリスト者がこの復活の事態を信じることがなければ、「この世の生活でキリスト
に望みをかけているだけだとしたら、わたしたちはすべての人の中で最もみじめな者
です」と語ったことをさらに上乗せして、パウロは、「死者のためにバプテスマを受
ける人たちは、何をしようとするのか、死者が決して復活しないのなら、なぜ死者の
ためにバプテスマなど受けるのですか」とか、「なぜわたしたちはいつも危険を冒し
ているのですか。…単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたし
に何の得があったでしょう」といって、復活に望みをかけて生きることの大切さを強
調しています。復活を信じて死者に代わってバプテスマを受ける習慣がコリントの教
会にあったのか、エフェソで野獣と戦ったというのはどういうことなのかはっきりし
ませんが、これらのことによって明らかになることは、復活の信仰は、誰にとっても
まだ見ない終わりの日についての究極の希望を語っているゆえに、それは現実の宣教
の厳しい試練の毎日を支える信仰であるということです。死によって終わってしまう
虚しい現実は、最後に死を滅ぼして下さる主イエスの復活を通して示される神の介入、
死への勝利があることを示されます
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