3月18日
2018年3月25日

「復活の体」
ミカ書 7:14-20 コリントの信徒への手紙一 15:35-49


 主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、主イエス御自身に起こった奇跡

にとどまらず、信じる者すべてに死から命への道が開かれたというキリスト教の信仰

の核心。この中で、この体はどのように復活するのか、どんな体をして復活するのか

という誰もが疑問に思うことが解明されています。わたしたちが死について確実に知

っていることは、人間が死ねば直ちに腐敗が始まり、土は土に塵は塵に帰ってゆくと

言うこと、また燃やされて灰になると言うことです。信仰者とて同じです。そのわた

したちに主イエス・キリストによって体のよみがえりが約束されているのはどういう

ことなのか、仮死の状態から蘇生したと言うことではなく、また、体から遊離した霊

魂の不滅性が語られるのではなく、「体のよみがえり」とはどういうことなのか、不

可解と言うほかないことです。

 パウロはこの疑問に正面から答えます。パウロの答えは彼の経験や当時の科学的な

見識に基づくものではありません。預言者的な、上からの啓示であり、それは過去か

らのものではなく、終末から現在へのメッセージです。パウロは答えます。「あなた

の蒔くものは死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは後でで

きる体ではなく、麦であれ、他の穀物であれ、ただの種粒です」と。「種」と言う体

の形から「草や木や花」と言う形へと変わって行く過程の中に、現在の体から復活の

体になる秘密が隠されているというのです。そこには種の消滅と解体、死がなければ

ならないようにわたしたちの現在の体の死がなければならない復活に至る必然の過程

が示されます。それとともに、種から生えでる草や花の形は種の形とは全く違う形や

色となるように、復活の体も現在のわたしたちの体の形とは別のものになる。「神は

御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」と。

種とそこから生えでるものの形は違いますが、しかし、命の連続性・継続性は保たれ

ます。神の創造の御業の不思議です。しかし、種の例えだけでは復活の体の様態は説

明が付きません。それぞれの種は以前と同じ形や色の草や木を生え出でさせるからで

す。現在の体が復活の体になることについて、次にパウロは次のステップに進んで、

神が与えるかたちには質の違いがあり輝きの違いがあるといいます。復活の体ははる

かに優れたものになるというのです。「死後の復活もこれと同じです。蒔かれるとき

は朽ちるものでも朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも輝かしいも

のに復活し、蒔かれるときは弱いものでも力強いものに復活するのです」と。自然の

命の形と霊的な命の形に違いがあり、霊の命の形へと変えられるというのです。ここ

に大いなる慰めがあります。

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