主イエスは「悲しみが喜びに変わる」とし、弟子たちに別れの悲しみも、再会の喜
びも必ず訪れると約束されました。
16節の「しばらくすると……わたしを見るようになる」という言葉の真意が分から
ないことに主イエスは心を痛められ、誤解を解くよう努められました。弟子たちは
「しばらく」という言葉に躓きました。「しばらく」とは短い時の流れのことで、十
字架の死による悲しみと復活による再会の喜びを例に挙げ、熱心に語られます。「世
は喜ぶ」の世とは悪の支配する世、悪徳の満ちた世のこと。主イエスは「悲しみが喜
びに変わる」ということを婦人の出産を例に21節で語りました。「女は子供を生むと
き、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の
人間が世に生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのためには、もはやその苦
痛を思い出さない」と。私たちを新しく神の子として生み出してくださる苦しみと重
ね、なぞらえておられます。
主イエスは私たちを神の子として生み出すために、十字架の苦しみの中に立ってく
ださいました。そして復活されました。死の悩みは一時の悩みでしかないと明言され
たのです。
しばらくというのは殆ど無きに等しいことです。また「しばらくすると世はわたし
を見なくなるが云々」とありますが、信じない者には、このわたしの姿は見えないけ
れども、あなた方は神のみ霊によって心開かれ、わたしが生きているのを知ると言わ
れました。
わたしを見る、わたしに会う。それは何よりも教会においてということです。礼拝
で讃美歌を賛美する毎に、御言葉に触れる毎に、また、聖餐に与る毎に、私たちは今
も主は生きておられるという思いにさせられます。悲しみの中で生きるとき、その辛
さは喜びに変えられます。この地に建てられたこの教会の枝とされたのも先人たちが、
くじけることなく艱難を克服されたからです。そして主イエスの愛の手によって、悲
しみが喜びに変えられて、主にある確かな信仰の道を歩んで来たからです。これこそ
私たち主イエスを救い主と信ずるすべての者に与えられている祝福であります。
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