7月15日
2018年7月15日

「起き上がり、そして歩く」
木村 太郎 牧師   イザヤ書 57:15-19 ヨハネによる福音書 5:1-18


 エルサレムには「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。そのほとりには大勢の

「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」が横たわって

いました。キリストはそこで、38年間も病気で苦しんでいる人に出会います。

 キリストは、この人に「良くなりたいか」と語りかけられましたけれども、この人

は「はい、良くなりたいです」とは答えませんでした。

 当時、このベトザタの池について信じられていることがありました。それは、主の

天使が降りて来て池の水を動かす時があり、その時に真っ先にこの池の中に入る者は、

どんな病気にかかっていても癒されるという言い伝えです。この人も38年間そのこ

とを信じていました。

 しかし、そう信じていても、この人が良くなることは不可能でした。この人を池の

中に入れてくれる人がいないからです。また、何とか自力で行こうと思っても、ほか

の人が先に降りて行ってしまうからです。

 ですから、誰が何と言おうと、この人には希望はありませんでした。この人を捕ら

え離さなかったことは、悲しみと嘆きであったのです。

 キリストは、そのような深い失望という固い殻の中に閉じ込められている1人の人

間に、「良くなりたいか」という招きの言葉を与えられました。キリストは、失望、

悲しみ、そして嘆きに支配されていたこの人を、ご自身を通して与えられる救いのご

支配の中へと導こうとされるのです。

 その救いへの招きは、ただ一方的に恵みとして与えられました。キリストは言われ

ます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、「その人はすぐに良

くなって、床を担いで歩きだした」のでありました。

 これは、主の天使が降りて来て池の水を動かす時、真っ先にこの池の中に入ること

によって起ると信じられていたことであったのです。

 しかし、今、その池の中で起ると信じられていたことが、キリストにおいて起った
のです。1人の人間が38年間信じて疑わなかったことが、今、キリストによって打

ち砕かれたのです。

 救いは、池の中で起るのではない。真の救いは、キリストにおいてこそ、キリスト

の言葉を信じることにおいて起る。そのことを、キリストご自身が憐れみと共に一方

的にお示しくださったのです。


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