生まれつき目の見えない人がいました。キリストは、「地面に唾をし、唾で土をこ
ねてその人の目にお塗りに」(9章6節)なり、「シロアム――『遣わされた者』と
いう意味――の池に行って洗いなさい」(7節)とお命じになりました。この人は、
このキリストのご命令に従い、池に「行って洗い、目が見えるようになって、帰って
来た」(同節)のです。
ここに不思議なことがあります。キリストは、ご自身の元に帰って来ることをお命
じにならなかったのです。キリストは、「洗いなさい」とだけご命令なさったのです。
にもかかわらず、この人はキリストの元に帰って来たのです。本来キリストの元に帰
る必要などなかったはずです。見えなかった目が見えるようになったからです。もう
キリストは必要ありません。違う道を進むことだってできたはずなのです。
しかし、この人はキリストの元に帰って来たのです。まさに神さまの御業の証人と
して、キリストによって捕らえられ、新しく形づくられ、新しく生きる者とされたの
です。もしかすると、シロアムの池での洗いは、洗礼を指し示しているかもしれませ
ん。この洗いを通して、この人は新しく生かされることになったのです。
一方的なキリストの救いによって、新しく創造されたこの人は、神さまの御業の証
人として立てられていったのです。目の見えない物乞いから神さまの御業の証人へ。
驚きの転換です。
この大きな転換の出来事を知らされるとき、私たち自身のことを思わずにはおられ
ません。神さまのこと、そしてキリストのことを何1つ知らなかった私たちも、一方
的に、キリストを通して、恵みとしての救いをいただいたのです。そして、洗礼にお
いて新しく創造され、神さまの恵みの証人として立てられたのです。思いもよらなか
った大きな驚くべき転換が、私たちに起こったのです。
そのことが成し遂げられたのは、ただ神さまの憐れみによってです。私たちは、
「恵みの上に、更に恵みを受けた」(1章16節)のです。だからこそ、私たちはそ
の憐れみをこの世で証ししていくのです。喜びと感謝と共に、神さまの救いの御業の
証人として歩んでいくのです。
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