キリストは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、
死ねば、多くの実を結ぶ」、とお語りになりました。キリストは、ご自身の命を、小
さな「一粒の麦」とおっしゃいます。
これは驚くべきことです。キリストは、神さまの御子です。神さまの御子としての
命は、偉大で、かけがえのないものであるはずです。小さいはずなどありません。し
かし、キリストは、1つのことにおいて、ご自身の命を尊いものとはなさいませんで
した。
それは、私たち1人ひとりの救いのためです。キリストは、ご自身の命よりも、私
たちの救いを尊いものとしてくださったのです。私たちは、キリストの十字架の死に
よって、私たちに注がれたそのキリストの深い憐れみを知らされるのです。
そしてキリストは、ご自身の死が「多くの実を結ぶ」ことになる、ともおっしゃい
ました。キリストが強調されていることは、一粒ということと、多くの実ということ
です。つまり、1つが多くを産み出すということです。キリストの命は、小さな一粒
の麦のようであるかもしれないけれども、キリストの死は、決して無駄になることな
く、確かな実りをもたらすのです。「多くの実を結ぶことになるかもしれない」、で
はありません。「多くの実を結ぶ」のです。
そして、その実りとは、まさに教会に集められている私たちひとり1人です。キリ
ストが、多くの実を結ぶとおっしゃるとき、私たちは、その多くの実りとは一体何で
あろうかと、思い巡らしたり周りを見回したりする必要はないのです。教会に集めら
れた私たちこそ、キリストの死を通して結ばれた多くの実りそのものなのです。
キリストは、ここで、ご自身の死が、私たち人間に新しい命を与え、その新しい命
に生きる者たちが増し加えられていくという確かな希望をお語りになってくださった
のです。
キリストの十字架の死というのは、一見、悲しみや嘆きや失望以外、何も産み出さ
ない出来事かのようであったのです。しかし、その出来事が、多くの実を結ぶ出来事
となったのです。そのことを一番証しているのは、この私たちひとり1人であり、私
たちが集められている教会という群れなのです。
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