11月25日
2018年12月2日

「主の来臨の希望」
 内田 武士 牧師  イザヤ書 51:4-11 マタイによる福音書 25:31-46


 私たちは今日待降節第一主日礼拝を迎えています。主イエスをお送りくださった

神の御愛に感謝し、同時に主の来臨を待ち望む時です。

 与えられた御言葉はイザヤ書51:4〜11です。著者はバビロン捕囚という悲劇の中

で、懸命に神の御言葉を取次ごうとしています。ここで「教えはわたしのもとから出

る」とあるように、神ご自身から出る教えである故に心して耳を傾け学びとるように

と勧めているのです。

 神の裁きは「すべての人の光として輝かされる」とあります。この主の到来を降誕

日まで、私たちは祈りと願いを込めて、一本づつのローソクに託すのです。「わたし

の腕」とありますが、それは神のなさる御業のことを言っています。バビロン捕囚の

民に、エジプト捕囚の昔を思い起させながら「奮い立て、奮い立て」と励まし、天地

創造における神の偉大な力や、出エジプトにおける贖いの御業のことを振り返って、

やがて確実に起こる出バビロンの約束に奮い立つようにと励ましています。アドベン

トはこうした主の御腕が私たちに伸ばされることを待ち望む時でもあります。

 次に与えられた御言葉はマタイ福音書25:34〜46です。世の終わりに来られる再臨

の主のことが語られているのです。主イエスは、やがておいでになる再臨の主です。

主がおいでになると最後の審判が行なわれます。それは天国に入る者と、そうでない

者とが分けられるのです。最後の審判では、どれだけ主イエスにお仕えしたのかが問

われます。しかも人々が崇め、敬うようなものに仕えるのではなく「わたしの兄弟で

あるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と、

言われたのです。すなわち、最もふさわしくない者から救いが始まるというのです。

主イエスは、まさにそのような者の一人となってこの世にお生まれになりました。私

たちがありのままであるのに対して、主イエスはありのままでしかありえない者と等

しくなられることにおいて、この世にお生まれになったのです。

 ここに主イエスの大きな愛があります。アドベントに際し、この大いなる愛をしっ

かり心に刻みつけ、これに応える者とされるよう祈るものです。


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