12月9日
2018年12月9日

「神の御心の中に」
 木村 太郎 牧師  イザヤ書 40:1-11 マルコによる福音書 1:1-11


 洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と言い、自分自

身が「その方の履物のひもを解く値打ちもない」者であると認めます。

 ヨハネが語った言葉の中に、「優れた」という字があります。これは、「力ある」

という意味です。ヨハネの「後から来られる」救い主イエス・キリストは、力ある

方なのです。

 それだけではありません。ヨハネは、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けた

が、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8節)とも言います。ヨハネの洗礼は、

水の洗礼なのです。しかし、力ある方キリストがお授けになるのは、「聖霊」によ

る洗礼なのです。これは、キリストが神さまの聖霊をお与えになることができる方

であるということです。人間ヨハネを遥かに越える、神の子キリストが、神さまの

救いを成し遂げてくださるのです。

 キリストの誕生物語を記さないマルコによる福音書は、そのキリストが、具体的

にこの世の中に来てくださった姿を、次のように記しています。「そのころ、イエ

スはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。

この姿が、マルコにおける最初のキリストのお姿なのです。

 キリストのこの地上での現れ方は、とても劇的とは言えません。処女からお生ま

れになるのではありません。天から降って来られるのでもないのです。キリストは

お1人で、何1つ語ることなく、静かに「荒れ野」にいるヨハネの下に行くのです。

そして、群衆に紛れて1人の人間としてヨハネから洗礼を受けられたのです。

 実は、まさにこの姿にこそ、力あるキリストの姿があるのです。私たち人間を救

う方として来られたキリストは、神の子でありながらも、私たちと同じ人間となっ

てくださり、私たちの歩みの只中に入って来てくださったのです。そして、罪を贖

うために、十字架へと進んでくださり、神さまの救いへの完全な手続きを取ってく

ださるのです。 

 そのことをひとつ1つ成し遂げてくださる姿にこそ、キリストの真の力があるの

です。クリスマスの出来事において、この力ある方キリストが到来することによっ

て、私たち1人ひとりの救いへの道が開かれたのです。


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