この箇所は死を前にしてイエス様が祈られた祈りです。大事なことはここで「父
よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光
を与えて下さい。」と祈られているように、これから始まる一連の十字架に関わる
出来事を《栄光の時》と見ておられる点です。どうして、あの酷く悲惨な刑罰であ
る十字架が「あなた(=神様)の栄光を現す」時と言い得るのでしょうか?
その答えは、ここでイエス様がわざわざ「天を仰いで言われた。」ことにありま
す。これを、祈りだから天に目を向けるのは当然だと簡単に考えてしまうとこの大
事さを見落としてしまうかもしれません。イエス様が天を仰いで言われたというこ
とは、これが天から(=神様から)見た言葉だということです。言い換えれば、天
のまなざしを持って見た時に、十字架が《栄光の時》だと言われているということ
です。
信仰とは天へと目を向けること、天からのまなざしを持って今を生きることに他
なりません。この世的には評価されないものが実は神様の目から見る時、栄光に包
まれているものとされるのです。もし、私たちの生き方をただこの世の評価や観点
だけで判断するならば、神様という存在にこだわり、自分にどこかブレーキを掛け
ながら生きているような人生に人からは見えるでしょう。もっと好き勝手に生きれ
ば良いのにとか、なぜそんなことにこだわるのかと言われてもしかたがないでしょ
う。しかし、私たちは天へと目を向けます。神様がいかにご覧になっているかを意
識しながら生きます。逆に言えば、そのような天からのまなざしこそ、私たちを支
え励まし導いてくれるものだからです。もし天へとのまなざしが欠け、ただこの世
の評価だけで生きてしまうならば、自分の信仰も他のクリスチャンの生き方や教会
のあり方も分からなくなり、迷い、信じることをやめてしまうということになって
しまうのではないでしょうか。そして、そのような天へと私たちの視点を向けさせ
てくれるものこそ《祈り》なのだということではないでしょうか。
最も厳しく困難な状況にあったイエス様が、なおそこで為さったことは《祈り》
であり、この祈りを通して天へと目を向けられたのでした。そして、これからの十
字架への道行きがすべて神様の栄光を現すみ業となることを確認し、思いも新たに
歩み出して行かれたのでした。
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