「ぶどう園の労働者のたとえ」において主人がぶどう園を経営している目的は、
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)
という言葉にはっきりと示されています。彼は人々を自分のぶどう園に雇い入れるこ
とによってその生活を成り立たせようとしているのです。だからこそ夕方の5時にな
っても人を雇い入れたのです。自分のぶどう園で働いた全ての者とその家族が必要な
糧を得られるようにしたい、という思いのゆえに彼は「自分のものを自分のしたいよ
うにして」いるのです。これこそが神の思いであり、この神のみ心にこそ人間の救い
がある、と主イエスは言っておられるのです。
このたとえ話の結論は、「後にいる者は先になり、先にいる者が後になる」(16節)
です。この結論は、最後に来た者から先に賃金を支払うようにという主人の命令から
来ています。主人はなぜそう命じたのか。それはこの賃金が「働きへの報酬」ではな
いことを示すためでしょう。神の救いは、私たちの働き、功績への報酬としてではな
く、ただ神の恵みによって与えられるのです。それは人間の常識に反することだから
文句が出ます。最初に雇われた人たちは、後にいる者が先になる不公平に我慢がなら
なかったのです。しかし主人がしているのは恵みに満ちた不公平です。弱い者が苦し
められる不公平ではなくて、公平の原則の下では十分な糧を得られないはずの人たち
が、主人の恵みによって必要なものを与えられているのです。私たちの救いは、この
神の恵みに満ちた不公平によってこそ与えられています。もしも神が「後の者は後、
先の者は先」とおっしゃったなら、私たちの誰も救いを得ることはできないのです。
夕方の5時から一時間働いて1デナリオンをもらった人は、夜明けから働いた人よ
りも得をしたのでしょうか。いや、夜明けにこの主人と出会い、この主人のぶどう園
で働くことができた人たちこそ、本当に幸いな人なのではないでしょうか。彼らは確
かに「まる一日、暑い中を辛抱して働き」ました。神を信じて生きることには苦労も
あります。しかしそれは希望のある、主イエスの十字架と復活による罪の赦しと永遠
の命が約束されている苦労です。神のぶどう園には、業績の査定もリストラもありま
せん。独り子イエスの命をすら与えて下さる恵みによって、神は私たちに必要な一デ
ナリオンの救いを与えて下さるのです。この神の下で生きることにこそ、本当に喜ば
しい人生があるのです。
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