今日の御言葉は断食に関する質問から始まります。ファリサイ派の人々や律法学者
たちに向かって主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人
を招いて悔い改めさせるためである」との言葉から断食に関する話へと展開してきま
す。ファリサイ派の人々から弟子たちの食事の在り方が指摘され、ヨハネに近い、粗
末な生活を強いられました。イザヤ書58:3では断食を苦行と言い換えています。苦
行とは自分を苦しめるということです。当時は神の審きに備え自らを戒めました。週
を半分に分けたところで一日断食したと言われています。34節で主イエスは「花婿が
一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」といわれま
した。断食などできるはずがないと言われたのです。花婿とは旧約聖書では神のこと。
主イエスはここで、花婿だと明言されました。なおヨハネの弟子たちや、ファリサイ
派の人たちの断食を主イエスは偽善とは非難しておられません。神が生きて働いてい
るのに何故断食するのかと主イエスは問いかけられました。
続いて主イエスは「しかし、花婿が奪い取られる時が来る」とも言われました。主
イエスが十字架に付けられて、弟子たちから去られることです。次いで復活されまし
た。弟子たちに信仰の薄い者、あなたたちの信仰はどうしてそんなに小さいのかとも
言われました。しかし、その後も食事を共にされました。使徒言行録の最初の所4節
を読みますと、やはり食事をして、その席で、わたしはこれから天に昇るが、聖霊・
神の霊を必ず送ると約束されました。神の霊が注がれて、私たちと共に生きておられ
る、神を知ったとき教会は食事をする群れになりました。食事をしては、仕事に出か
け、教会の仲間の所に戻ってきました。教会はその意味では食卓の集団です。そして
その食卓を囲むたびに私たちが知るのは、主が生きておられるということです。復活
された主が私たちと共にいてくださるということです。信仰生活において欠かせない
のは主が共にいてくださる喜びです。主に贖われている者の喜びです。自分が永遠の
命に生きている喜び、その喜びが私たちの罪をかき分けるようにして、日々の歩みを
堅くしていくのです。新しさを作っていくのです。私たちの日々の生活は、喜びをも
っての自己革新の日々であります。新しい着物、新しい葡萄酒と古い革袋という例え
を示されました。主イエスと共に生きるということは、全く新しいことです。古いも
のと断絶した新しさを持つのです。主の新しい恵みの中に立ち続ける者とされ、新し
い喜びに生きていくことができるようにと祈らざるを得ません。
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