救い主イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木」(ヨハネによる福音書15章5節)
とおっしゃいました。
なぜ「ぶどうの木」であるのでしょうか。りんごの木でも、柿の木でも、また、梨
の木でもよかったのではないかと思わなくはないのです。
しかし、ぶどうの木というのは、伝統的に特別な意味を持っていました。それは、
神さまによって選ばれ、祝福されたイスラエルの民を指し示すというものです(イザヤ
書27章2?6節)。勿論、キリストご自身もそのことをよくご存知でありました。
しかし、とても不思議です。それは、ここでキリストが、「あなたがたはぶどうの
木である」とおっしゃったのではないということです。
周りにいた人々は驚いたはずです。人々は、旧約聖書時代の伝統に従い、「芽を出
し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす」(同章6節)ぶどうの木は、イスラエル
の民を指し示すことを知っていました。ですからキリストの口から、「あなたがたは
ぶどうの木である」という言葉を予期していたのです。
キリストご自身が、ぶどうの木そのものであるはずはないのです。キリストは、あ
くまでも、ぶどうの木を養う立場、ぶどうの木の番人であるべきなのです。キリスト
は、「常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る」(同章3節)方
であるはずなのです。
しかし、キリストはおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその
枝である」。キリストご自身が、ぶどうの木の立場に身を置かれるのです。キリスト
ご自身が、ぶどうの木であり、そして私たち人間は、その木の枝としてキリストにつ
ながるのです。
ここでキリストは、教会のことをお語りになっておられるのです。教会の中心に、
キリストご自身がおられるということです。ぶどうの木としてのキリストは、教会の
歩みの中心に立ち続けてくださるのです。そして、私たちひとり1人は、その周りに
集められ、枝としてキリストにつながらせていただくのです。
そしてそれは、キリストが私たちひとり1人を、恵みをもってとらえ離さないとい
うことです。私たちは、キリストがこの群れの中心におられると信じることを通して、
自己中心の罪から解き放たれ、その方にとらえられている幸いと平安をいただくこと
ができるのです。
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