聖書では“手”という言葉が力、勢力、権力などの象徴として用いられることがあ
ります。人間は手を用いることによって、働きをなし、ものを作り、人を養い、守り
助けることもできれば、反対に人を傷つけ、人の命を奪う手となることもあるのです。
そのような“人間の手”に対して“神様の御手”が、特に“力強い御手”や“右の御
手”といった表現で旧約聖書に多く登場します。旧約のイスラエルの民は、主の「力
強い御手」によってエジプトから救い出されました。また、詩編では苦境や弱さの中
で苦しむものを救い出して下さる神様の御手がうたわれています。
本日読まれましたイザヤ書41章でも、神様が「救いの右の手であなたを支える」と
約束されています。さらには、「わたしはあなたと共にいる神…勢いを与えてあなた
を助け」とあるように、当時バビロンで捕囚となり苦しんでいたイスラエルを、神様
が右の御手で助け、力づける様子が語られています。「恐れることはない…」と、主
なる神様からの慰めと希望の言葉が示される中で、イスラエルの民は、自らの手が持
つ力と働は、全て神様の御手によって支えられ、祝福を受け、力づけられてきたので
す。
使徒言行録3章は、ペトロが主の霊の力を受け、エルサレムの境内で説教を語った
後の出来事です。「美しの門」に居た生まれつき足の不自由な男に、「ナザレの人イ
エス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語り、足を癒したのです。
ここでペトロが男性の“手をとって彼を立ち上がらせた”点に注目したいと思います。
「ナザレの人イエス・キリスト」の御名は直前のペトロの説教の、2章22節以下に登
場しますが、そこでは主イエスご自身が、十字架の死への道を自ら進んで歩まれたこ
とが伝えられています。そこでは「引き渡され…十字架につけて殺され…しかし神は
このイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」(2:23-24節)と全て
受身形で語られているのです。続く25節以下に詩編16編の詩がありますが、この
詩を通じて語られているのは、主イエスが全幅の信頼を天の父なる神様に置いて、主
なる神の右の手に身を委ね、死の支配から復活の命へと引き上げられるお姿なのです。
主イエス・キリストの御名を信じ告白する時、わたしたちも自らの力で勝利するので
はありません。むしろ、それぞれが抱える弱さや欠けの中にあって、主の救いの御手
を信じ委ね、生きる力を与え、また生きる勇気と喜びとを与えて頂くのです。
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