キリストは、ニコデモに対して、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなけ
れば、神の国を見ることはできない」(3節)とおっしゃいました。しかし、ニコデ
モは即座に、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母
親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と反論します。
「できるでしょうか」という言葉は、ニコデモ自身の「できない」という打ち消し
です。ニコデモの思いは、一度生まれた者が、もう一度母親の胎内という場所から生
まれることなどあり得ないという思いでした。
そのようなニコデモに対して、キリストは、さらに言葉を重ねてくださるのです。
キリストは、ご自身の言葉を打ち消す者をも、ご自身の支配の下に招いてくださるの
です。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に
入ることはできない」(5節)。
ここでキリストは、語る言葉を変えてくださっています。「新たに生まれなければ、
神の国を見ることはできない」(3節)から、「だれでも水と霊とによって生まれなけ
れば、神の国に入ることはできない」(5節)とお語りになるのです。「神の国を見る」、
とおっしゃったキリストは、「神の国に入る」、と言葉を変えられるのです。
キリストは、ニコデモが「神の国に入ること」を切望されているのです。「神の国
を見る」のではありません。キリストは、ご自身の言葉を言い換えられることによっ
て、罪の支配の中にあったニコデモを、何とか神の国へと、つまり神さまのご支配へ
と招きたいという思いを打ち明けられるのです。
このキリストの思いは、ニコデモだけに注がれているのではありません。私たちひ
とり1人にも注がれています。ニコデモの姿は、私たちひとり1人の姿ではないでし
ょうか。キリストがお語りになることを、自分自身の価値観で判断するのです。「で
きる」、「できない」と判断してしまうのです。救われた私たちでさえ、そのような
思いを持つことによって、罪の支配の下に逆戻りしてしまうことがあるのです。
しかし、キリストはそのような私たちをお見捨てにはなりません。キリストは忍耐
強く、私たちひとり1人を、言葉を通して神さまのご支配へと招き続けてくださるの
です。
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