この2章5〜11節は、研究者に拠れば当時の讃美歌(=キリスト讃歌)であった
と言われています。そうするとパウロはフィリピの教会の信徒たちに向けた手紙の
中に、わざわざ当時歌われていた讃美歌をそのまま引用して記したことになります。
どうしてここに讃美歌を入れ込んだのでしょうか?
二つの理由が考えられています。一つは、イエス様のご生涯、特に人に仕えて下
さったそのご生涯をこの手紙を読む人達に、讃美歌を通せばすぐに思い起こさせる
ことが出来るためです。その「へりくだって、死に至るまで従順」であった御姿を
この讃美歌を歌うことで一緒に思い浮かべることが出来るからでした。例えば、私
たちでも『まぶねの中に』(讃美歌21−280番)の讃美歌を歌う時に一緒になって
イエス様のご生涯に思いを馳せることが出来るように。
もう一つの理由は、このフィリピ教会の中で仲間割れがあったためです。二人の
女性の仲違いが災いして教会の中が分裂していたのでした。その状態に対して2節
で「心を合わせ、思いを一つにしてほしい」と願ったパウロが、次にここでこの讃
美歌を引用することによって、その仲違いをしている二人も礼拝では一緒にこの讃
美歌を歌っているではないかと、共にイエス様の前で賛美をし、膝をかがめ、頭を
垂れて祈りを献げているではないかと。そうであるなら、どうして一つの思いにな
れないのかと。イエス様を前にして仲違いをしていることは恥かしくないのかとい
う思いからなのです。まさに「イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス
・キリストは主である』と公に宣べる」ようになることが神様の御思いであり、す
べての者が「父なる神をたたえる」ことを喜んでくださるのだと。その御思いと御
計画に応えて行く者となろうと促しているのです。私たちもかくありたしですね。
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