この手紙が書かれた当時は、哲学者やソフィストと呼ばれる弁証家たちが雄弁な
話術を競っていました。白を黒と言う詭弁も評価される程でした。そのような中で
パウロの説教はそれほどアッピールするものではなかったようです。『彼の話はつ
まらない』と言われていたことを認めています。その原因は同じ事ばかり言うこと
ありました。イエス様の十字架と復活しか語らなかったからです。しかし何と言わ
れようとも倦むことなく福音の説教に徹したのでした。それが「主において喜びな
さい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく」
という言葉の意味です。加えて「あなたがたにとって安全なことなのです」とも言
っています。信仰を揺るがせないための方法だという意味です。
その上で3節からの警告は、フィリピ教会の人たちの信仰をまさに揺るがすもの
だから十分に気をつけなさいと語っているのです。「よこしまな働き手たちに気を
つけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と。ここで「働
き手」とはキリスト教の伝道者であり、割礼を持つユダヤ人でキリスト教に改宗し
た者たちでした。彼らはパウロたちが伝道した教会に後から入り込んでは、クリス
チャンになった異邦人たちをユダヤ人化しようと考えていたのでした。そのあり方
は、信仰から来ているものではなく、自分たちの特別性を自慢したいだけだとパウ
ロは指摘しているのです。
現代でもイエス様の業を真似することが一番良いことのように主張する人たちが
います。しかしイエス様は「私の十字架を背負え」と言っておられません。「私に
ついて来たい者は、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われています。
私たち一人一人に背負うべき十字架があると、それを主の導きと甘受して生きて行
くことこそ≪キリストに倣いて≫ということでしょう。
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