「さて、あなたがたがわたしへの心遣いをまた表してくれたことを、わたしは主
において非常に喜びました」と述べているように、フィリピ教会は獄中にあるパ
ウロを援助しようと献品と献金を送ったのでした。パウロにはその援助がありが
たかっただけでなく、彼らがパウロのことを心配して、具体的に行動を起こして
くれたことが何より嬉しかったのでした。「あなたがたは、よくわたしと苦しみ
を共にしてくれました」と語っている通りです。私たちの為すべき献金や支援の
あり方がここにはあるように思います。
ただ、その上で彼は「贈り物を当てにして言うのではありません。むしろ、あ
なたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」と続けています。これは献金
や支援のもうひとつの意味を教えてくれています。
ここで「益となる豊かな実」が何のことを指しているのかが肝心です。他の翻
訳では「あなたがたの勘定をふやしていく果実」(口語訳)とか「あなたがたの帳
簿を黒字にする実り」(聖書協会訳)とあります。もともとのギリシヤ語では実は
ロゴスという言葉です。普通は(言葉)と訳されますが、ここでは私たちが死ん
だ後に神様の前で審判に立つときの弁明をすることと考えれば良いでしょう。自
分の生きてきた根拠・拠り所を証しする時が誰にも来るのです。その時に私たち
は信仰に従って生きて来たと証しすれば良いのですが、加えて他者や同労者を援
助し支えて来たことが、その人生の「実=果実」となるだろうという意味なので
す。いわば(泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ)クリスチャンとして生きて
きた証拠となると。まさに(天に宝を積む)ということでしょう。他者を思い遣
り、いたわる行為は人が見てなくても、評価しなくても、神様は必ず覚えて下さ
るのです。勿論、そのような実を成らさなくてもかまわないことは前提です。
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