11月3日
2019年11月3日

「召天者記念―光に照らされて生きる」
 武田 真治 牧師  コリントの信徒への手紙二 4:6-10


 今日の聖書の箇所には「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納

めています。」とあります。この所が、私たちの存在を《土の器》であると語っ

ている有名な箇所です。明らかに旧約の創世記2章にある、神様が私たち人間を

土のちりから造り上げて、命の息を吹き込んで生きるようにして下さったという

出来事から来ています。言い換えれば《命の息》が抜けてしまえば、後に残るの

は単なる《土》に過ぎないという事であり、人が死ねば《土に還る》ということ

を考えての表現でしょう。この点は今日、この召天者記念礼拝に当たり、辛いこ

とですが、目を背けてはいけない事実でしょう。

 ただ、この《土に還る》しかない弱い私たちですが、神様から与えられる《宝》

を納めることが出来る存在だと、その意味で神さまの《器》となることが出来る

という素晴らしさも併せ持っていることをも示しています。その宝とは「『闇か

ら光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心のうちに輝いて、イエス・

キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」であると言われています。天におられ

るイエス様と私たちをつなぐ《光》が与えられるのだと。それはあたかも光通信

のようにイエス様と私たちを光でつながらせるのだと。まさに、心の中にその光

が与えられている者は、イエス様といつも通信しながらこの世の歩みを為し続け

ることが出来るのだということです。それは毎日をイエス様を見上げて生きてい

けるということでしょう。そして、この世を後にする時、そのイエス様の元へと

迎い入れられるのです。まさしくその《光の中へ》と歩み入り、その光に全身が

包み込まれるのです。それが私たちの復活です。

 間違ってはいけないことは、土の器とは私たちの体のことだけを指しているの

ではないという点です。「心のうちに輝く」のですから、「心」も土の器なので

す。心は信仰者であっても、傷つき壊れやすいものなのです。

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