毎月末、詩編を読み進めています。詩編の読み方はユダヤ教とキリスト教で
ははっきりと分かれます。この3編で言えば2〜3節の「主よ、わたしを苦し
める者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに言います。『彼に
神の救いなどあるものか』」を、ユダヤ教では代々ダビデの生涯に併せて読ん
できました。それがト書きのような1節の「ダビデがその子アブサロムを逃れ
たとき」の心境だと。しかしキリスト者はイエス様の十字架に伴う受難と併せ
て読んできました。十字架上のイエス様に対して、祭司長や律法学者たちが
「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」と嘲る言葉にで
す。彼らはまさに『彼に神の救いなどあるものか』と思っていたのでした。
ひるがえって、私たちも信仰者としてこの世を生きていく上で同じような嘲
りや批判を受けることがあります。他人から見れば、私たちのどこにも神様の
祝福があると思えない、恵みに満たされているとは見えない状況にある時に。
そして、この批判は胸をえぐるような痛みや辛さを与えるのではないでしょう
か。ある解説者が『この言葉は信仰者の魂に致命傷を負わせる刃である』と言
っているように。
しかしそのような侮りの言葉を受けながらも、4節からは「主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。い
かに多くの民に包囲されても決して恐れません」と主への信仰が揺るがないの
です。必ず「声をあげれば、答えてくださる」と信じているからです。故に
「主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」と祈るので
す。
この<立ち上がる>ことこそイエス様の《復活》さらには《再臨》を指し示
すと読まれて来たのです。ここにイエス様を信じる礎があります。これこそ人々
を恐れないで済む信仰の土台です。私たちはここに立つのです!
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