12月28日
1999年1月24日

「信仰者の戦い」

エフェソの信徒への手紙6章10−20


 エフェソの信徒への手紙の結論は、「神の武具」を身に着けてこの悪の時代にし

っかりと立つように勧めることです。わたしたちの日常は闘いの連続です。自分を

守るための闘い、自分を実現するための闘い、心理や正義のための闘い、悪しき欲

望との闘い・・・闘いに疲れ傷ついた心を癒し慰めるために信仰と教会生活がある

と考える人にとっては、ここで語られるような闘いのイメージはしっくり来ないか

もしれません。しかし、キリスト者も教会もまた闘いの中にいます。すでにキリス

トによって確保された勝利と、いまだ不従順な者たちの内にも働く霊が支配してい

るという現実の中で闘いがあります。そのための覚悟はできているでしょうか。教

会はそのための訓練の場となっているでしょうか。

 「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、支配と権威、暗闇の世界の

支配者、天にいる悪しき霊を相手にするものです」と語られます。わたしたちの日

常の戦いが、本当に戦うべき相手の正体を捉えていない戦いであることにどれほど

気づかされているでしょう。それは、霊的なものであって風のように正体をとらえ

難いものです。人の中にも自分の中にも天でも地でもその風は吹きすさびます。こ

の戦いにあっては、わたしたちの持ち合わせている力や知識などは簡単に相手の武

器になって利用されます。従って、「神の武具」が必要なのです。日本人のキリス

ト者は素手で戦うことが趣味にかなうと考えている人が多いように見受けられます。

柔道と空手の国だからでしょうか。素手で、自然体で悪魔が敵であるような戦いに

出ることは勧められません。社会でも家庭でも学ぶべきものを学ばないで、身に着

けるべきものを身に着けないで戦いに臨んでも相手の正体を見分けることさえでき

ないで、自分の心と体を傷つけるのがせいぜいでしょう。すでにキリストの血によ

って勝利し、平和を実現し、もたらしてくださった神の力によって強くなり、神の

備えてくださる武具を身に着けなければなりません。

 神の武具とは何か。真理の帯、正義の胸あて、平和の福音の備えの靴、信仰の盾、

救いの兜、霊の剣、ローマ時代の戦いのいでたちで近代戦を勝ち抜くことはできま

せんが、真理、正義、平和の備え、信仰・・・まことにこのような平和的な手段、

キリストと共にあるとき自然に身に着くものが、最も困難な敵との戦いにおいて最

も強力な武器となるというこのユーモアが大切です。


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