1月31日
1999年1月31日

「神の武具を身に着け」

エフェソの信徒への手紙6章18−24


 エフェソの信徒への手紙の最後、「神の武具」を身に着けるようにとの勧めは、

真理や正義などの6つの武具を並べた後に、「どのようなときにも、霊に助けられ

て祈り、願い求めなさい」と勧めています。これはどのように理解すべきでしょう

か。祈りは神の武具の一つ、すなわち7番目の武具と考えるべきでしょうか。祈り

こそ、暗闇の力、悪の諸霊に対抗して戦うための最も有効な武器ではないでしょう

か。しかし、ここでは、祈りは信仰者が戦いのために備える武具とは数えられない

ことに注目しなければなりません。「神を呼ぶことは、信仰や希望のための主要な

訓練であり、神の祝福にあずかる道」(カルヴァン)であるのは確かです。しかし、

それは戦いの手段や自己の願いを実現するための道具に堕するとき、祈りもまた暗

闇の力、悪の諸霊の道具に変わりえます。祈りは武具のような道具ではなく、霊で

ある神との生きた交わりであり、その御心にわたしたちの心を合わせるための挑戦

であり、命の源にあずかることです。だから、「霊に助けられて祈る」ことが必要

なのです。また、わたしたちが必要とするときだけ祈るのではなく、「いつも」祈

っていなければならないのです。

 つぎに、パウロは聖徒のために祈って欲しい、そして獄につながれている自分の

ために祈って欲しいといっています。とりなしの祈りを求めているのです。人はな

ぜとりなしの祈りを求めることができるでしょうか。祈りとは神との人格的な、ま

た個人的な交わりです。他者が介入できるような領域ではありませんし、介入すべ

きでもないと考えることもできます。他者のために祈るべきだと勧め、そのように

祈り合うことに意味があるのは何故でしょうか。祈り合うことによって互いに人に

対する重いと関心が集中して、思いやりが深くなるという心理的効果があるからで

しょうか。そうではありません。祈りは自家製の神との対話ではなく、天と地の創

造者である父なる神、イエス・キリストにおいて人となりわたしたちと共に歩まれ、

わたしたちの罪を担って十字架にかかり、復活したもうた神、聖霊において今もわ

たしたちの内に新しい霊をおくってくださる神との交わりですから、霊に助けられ

て祈るとき、その祈りは必然的にわたしのための祈りから解放されて、世界のため

の祈りに、他者のための祈りへと広げられていくからです。このような他者のため

の祈りにおいて、わたしたちのこの世における戦いはすでに勝利したものとなるの

です。


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