ローマの信徒への手紙10章5−15
「福音」−喜びの知らせ−と言い表されているキリストを信じる信仰を多くの人 に伝えることはキリスト教会と個々のキリスト者の務めです。その福音の信仰をこ れ以上要約しようもないほどに簡潔に言い表した言葉が、「口で、イエスは主であ ると公に言い表し、心で神はイエスを死者の中から復活させられたと信じるならあ なたは救われる。・・・主を信じる者は誰も失望することがない。・・・主の名を 呼び求める者は誰でも救われる」です。これがキリスト教の信仰の入り口、中身、 目標です。 信仰が信じ、告白し、呼ぶという行為であることに注目しましょう。こうするこ とによって救われ、ここに力があり、失望に終わることがないと言うのですから。 イエスを主と「告白し」、神がイエスを死者の中からよみがえらせたと「信じ」、 主の名を「呼ぶ」、これが信仰の行為であり、祈りのかたちです。これは対話の構 造です。しかし、信仰の行為はよく観察すると二重の対話の構造になっているのに 気づきます。まず根源的・中核的な対話の構造があります。主イエスと主イエスを よみがえらせた父なる神を信じ、告白し、呼びかけること、そしてそれよりも先に、 そしてそれよりも先に、主の言葉と行為があってわたしたちをそこに示されている 罪の赦しの恵みによって招きます。主の名を呼びさえすれば救われるという事態に まで整えてくださっているすべての人に対する神の側の激しい愛があります。その 根源的・中核的な対話の構造と同時に、もう一つの対話の構造があります。宣べ伝 える人がいて、遣わされ、人々に呼びかけ神の愛についてすべての人の耳もと近く で言葉を聞かせる、根源的な対話の構造へと導く者との対話の構造です。信じない 者は呼べない。聞かされなければ信じることはできない。宣べ伝えられなければ聞 かされることはない。遣わされなければ宣べ伝えることはできない。このようなた たみかける論理で語っていることは、根源的な対話へと導く者と導かれる者とによ って起こる対話の構造です。この周辺的な、前座的名対話をするための働きが、「 その足は何と美しいことか」と称えられているのです。ここで美しいのは、顔や頭 や言葉ではありません。「足」です。わたしたちが信仰を証しし、言葉にも行いに も力のない者が、敢えて生涯をかけてそれはまさに福音であることを告げ知らせる のは、「足」の働き、そしてそれが「何と美しいことか」と称えられるに価するも のなのです。