2月28日
1999年2月28日

「心を注ぎ出して祈る」

サムエル記上1.10-17,マタイ14.13-23


 ハンナが心を注ぎ出して祈り、サムエルという幼子を与えられた話と主イエスの

5000人の給食の話と、一見何の関係もない話のようですが、共通することがあ

ります。それは、祈りの声が響きわたっていることです。

 ハンナの祈りははっきりしています子どもがないという悲しみの中で思い悩み、

泣きながら酔った者のように祈っているのです。「男の子を授けてくださますなら、

その子を一生おささげします」と祈ります。このような取引を神とするということ

は、それほど切実で、また現実的なまさに生活の中の祈りをしているということで

す。人は真剣に祈るとき、すべてを捨ててすべてを得ようとするのです。このよう

に祈ることでそれ自体がもう悩みから解放されることに向かっています。ハンナは

祈った後、「食事をしたが彼女の表情はもはや前のようではなかった」と記されて

います。

 主イエスの祈りはよく注意しないとどこにあるのかわかりません。バプテスマの

ヨハネがヘロデに殺されたことを聞いて、イエスは「荒れ野に退かれた」ことから

この話が始まっています。群衆が押し寄せてきたので深く憐れまれ、教えたり癒し

をされたりした後、5つのパンと2匹の魚で男だけでも5000人以上の人を豊か

に養われ、その中心でパンと魚を持って天を仰ぎ感謝の祈りをします。更に群衆を

解散させ弟子たちを船に乗り込ませて一人山に退いて祈られます。つまり、前後と

真ん中に主イエスの祈りがあるのです。この祈りはバプテスマのヨハネの死から、

荒れ野に向かい、やがて来るご自身の死をいよいよ深く決意される祈りであったで

しょう。与えてやまない命を用いる決意です。そして、その命の恵みを具体的に多

くの人に示すために、弟子たちの差し出すパンと魚をもって、主の元に集まってく

るすべての人を豊かに養っているのです。主イエスを死に追いやる力が迫っている

現実の中でのイエスの祈りはまさに生活の中の祈りです。

 ハンナの祈りとイエスの祈りと、まさに生活のただ中で祈られている祈りですが、

両者の違いはどこにあるでしょう。男の祈りと女の祈り、旧約の祈りと新約の祈り、

神の子の祈りと人間の祈り、・・・しかし、根本的な違いは、ハンナの祈りは命を

得るための祈り、主イエスの祈りは命を与えるための祈りであるというところです。

ハンナの祈りはわたしたちの生活の中での祈りと大差はありません。このハンナの

生活の祈りの下に、背後に、前に、主イエスのわたしたちの生活のただ中にある祈

りがあって、その祈りが全地に響き渡っているのです。


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