3月21日
1999年3月21日

「隅のかしら石」

詩篇118.19-25,マタイ7.7-8



 求めなさい、そうすれば与えられる。さがしなさい、そうすれば見つけ出せる。



戸をたたきなさい。そうするば開かれる。驚くほどの単純さ、直接性をもってわた



したちが意図することと実現することとが結びついていること、これほどの単純さ



と直接性を見通すことができるのは、わたしたちの生活の中では希有なことです。



「あなた方の天の父は求める者によいものをくださるに違いない」という揺るがな



い天の父に対する主の信頼がこのような見通しを可能にしています。わたしたちの



教会堂を求める願いと祈りは20年間、いまその実現を目の当たりにしています。



求め、探し、戸をたたき、「そうすれば・・・」がわかるまでに20年かかりまし



た。



 この「そうすれば」の内容を、詩篇の言葉は言葉はさらに豊かに教えてくれます。



この詩篇はエルサレムの聖所に巡礼に来た人達が、聖所の門のところで行われる礼



拝の時に歌われた讃美歌だとおわれます。「正義の門をわたしに開けてください。



そうすれば、わたしは中に入ってヤハウェに感謝を捧げます。この門こそヤハウェ



にいたる門。正しい人はこれを入って行きます。わたしはあなたに感謝します。わ



たしに目をかけ、わたしの救いとなってくださったからです。」わたしたちは今日



どのような思いで教会の門をくぐったでしょうか。この詩人は「さあ早く、門を開



けてください」と勢い込んでせかすように歌っています。早く中に入って主に感謝



したいという思いが詩人の心をせき立てているのです。それは、「苦難のはざまか



ら主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放ってくださった」「主はわたしを



厳しく懲らしめられたが死に渡すことはなさらなかった」と語るように、死の領域



に限りなく近づいていくような経験があり、そのただ中で、主が介入し、主が味方



になってくださった人として、聖所に来ているからです。主の臨在と介入を経験す



るのは、聖所の中ではなく聖所の外、日常の場、苦難の狭間、戦いの中です。しか



も主の助けは、「家を建てる者の捨てた石が隅のかしら石となった」ような、当然



のことが当然のように起こったことではなく、全く逆転ホームランのように、当然



捨てられるべき者が拾われ、生かされ、豊かに用いられるようになったのです。こ



こにわたしたちの救いがあり、礼拝に向かう思いがあります。わたしたちが礼拝堂



の入り口に立つ思いはこのようなものであるはずです。実はわたしたちは、礼拝堂



に入るとき主イエスと共に入っているのです。ひとたびは捨てられて、隅のかしら



石となった主と共に・・・。


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