イザヤ書40:1-11,マタイ21.1-11
第二イザヤと呼ばれるイスラエルに解放を告げる預言者は、真の慰めと解放が実 現するためには、捕囚の民が故国に帰っていくために、荒れ野の中に一本の広い道 がつき、低い他には高く、険しい山はならされて低くされて、整えられた道を解放 された人々が帰っていくことができると預言したのです。 わたしたちの主イエス・キリストはわたしたちに解放と自由を与え、真の故郷へ とわたしたちを導いてくださいます。そのために十字架への道を歩まれます。しゅ ろの主日の出来事は、まさに十字架への道を歩み始める主が、わたしたちのために 救いにいたる道を切り開いてくださる出来事でした。どのようにしてでしょう。子 ろばに乗ってエルサレムに入城する主イエスを群衆は道に上着を敷き、しゅろの葉 を切ってきてイエスの通るところに敷いては叫びます。「ホサナ、ホサナ」(主よ、 今こそお救いください)。この出来事によってどのような道が敷かれたのでしょう か。 まず、この出来事は人々の叫びが主役ではなく、主イエスの圧倒的な主導によっ て始まっていることに注意しなければなりません。子ろばを連れてくるように強い て二人の弟子達を遣わし、借り物の子ろばに乗ってエルサレムにはいることを望ま れたのは主ご自身でした。ともに聖所に向かう貧しい人々には喜びを与えたでしょ うが、エルサレムにいる祭司長達には貧しさと嘲りの対象となるべきことをあえて されたのです。また「ホサナ」の叫びはルカやヨハネは王としての到来を喜ぶ民衆 の叫びの形になっていますが、マルコとマタイは詩篇118編の情景により近い形 になっていて、聖所に巡礼に来た人々が聖所の入り口のところで礼拝をした中での 讃美、「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」という逆転の恵みを感謝せ ずにいられない人々の感謝の中から出てくる叫びです。従って「ホサナ」は主イエ スに対してだけ叫ばれたものではなく、人々の神に対する讃美の声です。主ご自身 がその讃美に心を合わせてエルサレムに入って行かれたことを意味します。へりく だった姿で重荷を負うろばの子に乗って来るメシアは、自らにより頼んで嘲る人々 と、貧しくへりくだったものの感謝とを結び付けるということを、あえて貧しさを 引き受けその讃美に心を合わせることによって行っています。