エレミヤ書31.15-22,コリント4.16-5.10
キリスト者は主イエス・キリストの十字架の死に心と自らの生き方を合わせ、ま た復活に心を合わせます。これがどれほど幸いなことか、日々そのことをますます 深く確認していくことができます。それはわたしたちの思いもかけない道筋で神が わたしたちの不真実を赦し、用いてくださることを主イエスの復活によって知るこ とができるからです。神がわたしたちの罪と不真実を扱うために御子において備え られた救いの道筋は、およそわたしたちが思い浮かべる救済の道、解決の方向とは 違います。たとえば、ピラトの罪は歴史と共に忘れられたのではありません。その 不真実は偶然のもっと大きな出来事に呑み込まれたからどうでもよくなったのでは ありません。その弱さとは関係なく赦しが起こったのではありません。ピラトの罪 が主イエスによって引き受けられ、その不真実の結果が主によって完全に担われて、 もはやその責任を問われることがなくなったから、ピラトの名前とその不真実が神 が主イエスにおいて備えてくださった救いの出来事を告白する言葉の中に入れられ ているのです。 このような道筋をたどって、わたしたちの不真実や弱さ、罪が恵みと赦しに飲み 込まれる経験によって勇気と力を得ている人の証言を、「わたしたちの内なる人は 日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い難儀は、比べものにならない ほどの重みのある栄光をもたらしてくれます」というパウロの言葉でも聞くことが できます。主イエスの十字架の死と復活に心と生き方を合わせるところから出てく る大胆な勇気のあるしぶとい生き方。自らの福音伝道者の生活を振り返りながら、 彼は「落胆しない」というのです。四方から苦しめられても、途方にくれても、虐 げられても、打ち倒されても、それは「外なる人」すなわちイエスの十字架の死に 心を合わせていく人ととらえられ、この外なる人が日々衰えていくとしても、わた したちの内なる人、すなわち復活に心を合わせて生きる人は日々新たにされていく、 と捉えているからです。艱難から希望にいたる道筋は偶然でも好運でも強い性格か ら来るものでもなく、わたしたちのために十字架にかかり復活された主と共にある ことからくるのです。 「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。」