5月2日
1999年5月2日

「わが心は主をあがめ」

ルカによる福音書1:39-56


 エリザベトとマリア、神の計画によって特別な子どもを身に宿すことになったこ

れらの二人の女性が、大きな喜びと感謝をもってそれぞれ自分に与えられたものを

受け入れています。それだけでなく、ルカは、二人が出会うことによってその恵み

をますます確かにしていったことを記しています。マリアは強い決意に促されてナ

ザレからユダヤの丘の町に住むエリザベトを訪ねます。マリアの挨拶の声を聞いた

とき、エリザベトの胎内にいる子は飛び跳ねたと記します。そのときエリザベトが

聖霊に満たされて叫んだ言葉は驚きに値します。「わたしの主のお母さまがわたし

たちのところにきてくださるとは。まあ、いったいどうしたことでしょう。」

 エリザベトはマリアが語る不思議な話しを信じただけでなく、大きな喜びと共に

「主の母上」としてマリアを受け入れ、「主がおっしゃったことを必ず実現すると

信じた方は幸い」とマリアを力づけています。マリアの小さな確信はエリザベトの

祝福によって確かなものとなり、大きなものとなります。さらに、驚くべきことは、

祭司の家の出身、祭司の妻、正しい生活によって多くの人の尊敬を受けてきたこの

人がただの娘にすぎないマリアをうけいれるこの謙遜の態度です。自分から生まれ

子どもよりこの娘から生まれるものの方が偉い人になることを素直に喜べる母親は

めったにいません。自分に与えられた幸いを徹頭徹尾「恵み」として受領する人の

深く澄んだ心をうかがわせます。

 有名なマリアの賛歌は、このエリザベトの言葉に呼応して歌われたもので教会の

讃美歌の最も古いものの一つです。全身全霊をもって主を大いなる方としてたたえ

ます。マリアの賛美の精神は「身分の低いこの主のはしためにも目をとめてくださ

いました」という言葉によってその根拠が示されています。マリアは自分の身に起

こったことを単に恵みとして素直に受け止めたというだけにとどまりません。それ

を「ありがたいこと」として、つまり普通なら起こるはずのない恵みだと認めてい

るのです。また、その「ありがたいこと」は、ただ自分の身に起こっただけでなく、

それは神が恵みをあらわされるときの原則であることを洞察しています。神の救い

の「革命原理」とでもいうべきことを見抜いているのです。低いものを高くし、力

あるものを打ち砕き、貧しいものを富ませ、この革命的な事態、これが「力ある方

がわたしに偉大なことをなさいました」の意味です。主イエスの到来によってわた

したちの世界にもたらされた神の救いは、まさに革命であるに違いありません。旧

約の神と人間の歴史の中で培われた敬虔の純粋な精華がこれらの二人の女性の感謝

の心の中にあるのを見ることができます。


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