7月11日
1999年7月11日

「悪魔の誘惑」

ルカによる福音書4:1-13


 バプテスマのヨハネから洗礼を受け、聖霊が鳩のように見えるかたちで降り、天

からの声が「これはわたしの愛する子」とあったイエス、聖霊に満たされた人とし

て公生涯を歩み始めた主イエスは、ただちに人々のところへ行って福音をのべ伝え

るのではありません。「荒れ野の中を霊によって引き回される」のです。信仰に生

きる人は生涯の重要な時機に試みを経験し、その中で神の真実に目を開かれるよう

に、わたしたちの主も生涯のはじめ、生の極限、荒れ野と飢餓を味わっておられま

す。深く誘惑するもの、人を命ある者から死に支配されている者へと誘うのは、目

に見える荒れ野や40日の断食ではありません。ことばを持つ者、しかももっとも

人格的な対話を求める者、いつも近くにいる者、「悪魔」「試みる者」です。

 荒れ野、最も愛のない、希望のない、真実のないところで、人として、責任を持

った生き方をするのはどのようにしてであるか、荒れ野の中を引き回される生活は

わたしたちの中にもあります。主イエスの言葉は、驚くほどの深さと正確さで傷つ

いた心に届く愛にあふれていることによく気づかされます。このやさしさと正確さ

は、物事の本質を深くとらえている故に生まれてくるというより、みずから荒れ野

に身を置いて体験しその極限にある悪魔の誘惑が何であるかを知っておる故の愛に

よると考えることができます。

 悪魔の三つの誘惑とそれに対する「否」は、主イエスの全生涯が何に向かうもの

であるかの輪郭がはっきりと浮かび上がらせるものです。この誘惑は「あなたが神

の子なら」という前提ではじめられます。メシア、救世主であり得るために、激し

くせめぎ合う似て非なるものと、永遠に真実であるものとが切り分けられます。こ

こで選びとられた主イエスの「神の子、救い主」の道はまっすぐに十字架に向かっ

て、「死に至るまで従順」なものとして人々の罪を負う生き方に向かって伸びてい

ます。

第一の誘惑:「神の子であるなら石をパンになるように命じなさい。」「人はパン

だけで生きるのではない。」イエスのメシアとしての役割と責任はどこでどのよう

に果たされるのか、が問題です。石をパンに変える、資源を有効利用して生きる糧

に変える、これは人間の科学・技術が追求してきたことです。特に20世紀の人類

はここに幸福の源があると信じその信仰と努力の成果を見ました。また同時にその

限界と陰も・・・。わたしたちのいのちの本質は生物的ないのちを支えるものだけ

でなく「神の言葉」が必要だというのです。


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