7月18日
1999年7月18日

「主の恵みの年を告げる者、招かれざる者」

ルカによる福音書4:14-30


どんな
 荒れ野での悪魔の誘惑に打ち勝たれた主イエスはガリラヤでの活動をはじめます。

霊の力に満たされた主の言葉と働きは、町々の評判となります。さて、そこから、

他の福音書と違ってルカは、ただちに生まれ育ったナザレに行き、安息日に会堂で

話されたことを伝えています。これを伝えるルカの言葉は実に詳細で、立ったり坐

ったりの行動や所作が目の前で起こっているようにわかります。それは読む者にも、

ぜひその場の心の動きに立ち会って欲しい、そこで起こっている人間の心の事態に、

どうか立ち会ってしっかりと感じて欲しい、という著者の思いが伝わってきます。

 このナザレでの主イエスの行動によって起こった人々の心の動きは、深い感激と

激しい憤激という極端に違った感情の動きです。平和な田舎のシナゴグの安息日の

礼拝。日頃は何事もなかったようにいささか退屈な時間が流れる時なのでしょうが、

主イエスが語りだすとともに、激しく時間が動き始めます。

 「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した。」主は、確か

に、こう語られたのです。貧しい者が、とらわれていた者が、打ちひしがれていた

者が、目の見えない者が、解放と自由、癒しと慰めが与えられる、あの預言者の語

ったメシアの時、恵みの年がいまここに実現している、と。ナザレの人々はその言

葉を自分と同じナザレの人の言葉で、同じくせやアクセントのある親しみのある言

葉で聞いたのです。それはどんな喜ばしい経験だったでしょう。わたしたちも、こ

の解放の調べを、そのように身近に聞くことができれば、どんなに喜ばしいことで

しょう。ナザレの人の反応は正常です。人々は深く納得し、「その口から出る恵み

の言葉に驚嘆した」とあります。

 しかし、その驚きと賛美はただちに見当違いの方向に向かいます。「この人はヨ

セフの子ではないか。」むしろ、イエスの方が、ナザレの人々の驚嘆や納得の内に

あるものを見て、ただちにその思いからご自身を引き離されます。「預言者は自分

の故郷では歓迎されないものだ。」自分のための神、自分の仲間である神、自分に

奉仕する神を求めて、自ら隔絶された神の働きを見ることが出来ないこと、仕える

ことを知らない信仰と生活の本体を見たのでしょう。激しい怒りと殺意、それは最

も身近なナザレの人に起こったものでした。


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