ルカによる福音書4:42-5:11
二つの対照的な主イエスに対する人々の求めが示されています。一つは、主イエ スを探し出して、「わたしたちから離れないでください」といって強く引き留めた カファルナウムの群衆、他は、シモン・ペテロ、主イエスに「わたしから離れてく ださい、わたしは罪深いものです。主よ」といっています。主は群衆の求めを退け て、彼らから離れて行かれます。シモンには、「恐れることはない、今から、あな たは人間を捕る人だ」といって、従うように命じられます。シモンはすべてを捨て て、主イエスに従ったのでした。これらの二つの例は、わたしたちの間にも見られ るものです。 カファルナウムの人々の気持ちはよくわかります。権威と力をもって語られる方、 悪霊にさえ命じることができるお方を、自分のかたわらに持つことができるのは心 強いことです。このような主が共にいてくださるように、強く願い、引き留めるの は当然です。しかし主イエスは、そのような人々の願いには応えられません。この ような群衆からは離れなければならなかったのです。主に出会うことを求めるもの は、わたしのために、いつまでもわたしのところに留まってくださることを求める とき、いつも失望に終わるでしょう。いつも主のもとに留まっていたい人は、主と ともに歩き出さなければなりません。神の国の福音を告げる主とともに歩き出さな ければなりません。 主イエスがゲネサレト湖畔に立って、押し寄せる群衆に神の国をのべ伝えている とき、シモンは遠く離れて仕事に没頭していました。夜中じゅう働いて魚一匹とれ なかった網を、仲間の漁師と一緒に洗っていたのです。虚しい生活に疲れた心に、 主の言葉は何も響きません。しかし、主はそれを見ておられ、声をかけられます。 シモンに頼んで舟を漕ぎ出させ、岸から少し離れたところで、舟に坐って群衆に話 されたのです。しかし、シモンは、どこかイエスの心とは遠く離れたところにいた のです。そこからは、よく知られたシーンが展開します。主がシモンに命じて沖に 漕ぎ出させ、網を下ろさせると、昼の日中なのに、おびただしい魚が網に入って網 が破れるほどだったというのです。そこでシモンにあの願いが起こります。「わた しから離れてください。」ペテロは生きて働いておられる主と、その目の前にいる 自分との両方に目が拓かれたのです。この畏れの感覚、開かれた目をもつものを、 主は必要とし、従うように命じられます。