8月8日
1999年8月8日

「すべてを捨てて、イエスに従う」

ルカによる福音書4:42-5:11


 二つの対照的な主イエスに対する人々の求めが示されています。一つは、主イエ

スを探し出して、「わたしたちから離れないでください」といって強く引き留めた

カファルナウムの群衆、他は、シモン・ペテロ、主イエスに「わたしから離れてく

ださい、わたしは罪深いものです。主よ」といっています。主は群衆の求めを退け

て、彼らから離れて行かれます。シモンには、「恐れることはない、今から、あな

たは人間を捕る人だ」といって、従うように命じられます。シモンはすべてを捨て

て、主イエスに従ったのでした。これらの二つの例は、わたしたちの間にも見られ

るものです。

 カファルナウムの人々の気持ちはよくわかります。権威と力をもって語られる方、

悪霊にさえ命じることができるお方を、自分のかたわらに持つことができるのは心

強いことです。このような主が共にいてくださるように、強く願い、引き留めるの

は当然です。しかし主イエスは、そのような人々の願いには応えられません。この

ような群衆からは離れなければならなかったのです。主に出会うことを求めるもの

は、わたしのために、いつまでもわたしのところに留まってくださることを求める

とき、いつも失望に終わるでしょう。いつも主のもとに留まっていたい人は、主と

ともに歩き出さなければなりません。神の国の福音を告げる主とともに歩き出さな

ければなりません。

 主イエスがゲネサレト湖畔に立って、押し寄せる群衆に神の国をのべ伝えている

とき、シモンは遠く離れて仕事に没頭していました。夜中じゅう働いて魚一匹とれ

なかった網を、仲間の漁師と一緒に洗っていたのです。虚しい生活に疲れた心に、

主の言葉は何も響きません。しかし、主はそれを見ておられ、声をかけられます。

シモンに頼んで舟を漕ぎ出させ、岸から少し離れたところで、舟に坐って群衆に話

されたのです。しかし、シモンは、どこかイエスの心とは遠く離れたところにいた

のです。そこからは、よく知られたシーンが展開します。主がシモンに命じて沖に

漕ぎ出させ、網を下ろさせると、昼の日中なのに、おびただしい魚が網に入って網

が破れるほどだったというのです。そこでシモンにあの願いが起こります。「わた

しから離れてください。」ペテロは生きて働いておられる主と、その目の前にいる

自分との両方に目が拓かれたのです。この畏れの感覚、開かれた目をもつものを、

主は必要とし、従うように命じられます。


秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る