8月15日
1999年8月15日

「主よ、み心でしたら」

ルカによる福音書5:12-5:16


 全身をらい病に犯されている人が主イエスの前に倒れ伏して主に願っています。

「主よ、もしあなたが望まれるなら、あなたはわたしを清くすることがおできにな

ります。」この人の主に近づく近づき方、出会い方は独特です。どのような心が、

このように語らせるのでしょうか。「やれるならやってみるがいい」という、半信

半疑の、投げやりな心ではないでしょう。あるいは主体性を捨てた甘えきった態度

なのでしょうか。その心をよく考えると、はっきりとした二つの認識があるのは確

かです。らい病を患っている自分について、自分自身ではどうすることもできない

無力なものであるという認識、自分の目の前にいる主イエスの病に対する権威と力

にたいする信頼と確信です。この二つの認識が合わさったとき、自らをイエスの前

ひれ伏させ、熱心に求めるという激しい行動に出ています。主イエスとの出会いは、

わたしたちにとっても投げやりな静止的な運動ではありません。激しい行動をとも

なう運動です。しかし、わたしたちに可能なものを不可能だとあきらめて主の前に

願い求めるのは甘えた信仰、逃避した信仰です。また、自分の無力を認識もせず、

真に力のある方を認めもしないのは怠惰な不信仰です。主の前に出て「もしあなた

がお望みになるなら・・・」と願ったこの人は、その意味で信仰の達人でした。

 しかし、どんなに達人であっても、その信仰だけではどうにもなりません。聖書

は主イエスとの出会い方を教えるだけでなく、出会いそのものを教えています。す

なわち、主はこのように求める人に対して、「手をさしのべて、その人に触れ、『

わたしは望む。清くなりなさい』」と語られるのです。主イエスはらい病人に手を

伸ばし触れられました。それは律法を犯したということです。病を自分に引き受け

る行為です。「わたしは望む」というイエスの言葉が、その行為によって、どれほ

ど真実でただならぬものであったかがわかります。「もし、あなたが望んでくださ

るなら、清くされる」というらい病者の心にある二つの思い、二つに分裂した思い

は、主イエスの「わたしは望む」によって一つにされます。このように主が願って

くださり、手を伸ばしてくださることによって、もはやわたしたちは病によって、

不自由と隔絶から解放されます。主がおられるところでは、このような出会いがど

こもあります


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