ルカによる福音書5:27-39
徴税人レヴィの招きと断食と祈りをめぐる論争の中で、特にルカは主イエス・キ リストの名によって集まる共同体の特徴は何か、ヨハネの弟子たちやファリサイ派 の信仰とキリスト教会の信仰の明確な違いはどこにあるかを明らかにしようとして います。キリスト教会の革命的な力、古いものを引き裂いてしまうような新しいぶ どう酒の生命力はどこにあるのでしょう。 福音書の物語は、教えより出来事が先行します。ここでもレヴィという徴税人が 収税所に坐っていたところを見た主イエスが「わたしに従ってきなさい」と呼びか け、レヴィはすべてを後に残して従っていったこと、そしてこのレヴィが仲間を大 勢招いて盛大な宴会を設けたことが一気に語られます。どこでもある人間の交わり の風景。実は、この出来事によって、新しい革命的なことが始まっています。異変 が起こっているのです。この出来事が世界を変えたのです。その異変にはじめに気 づいたのは、ファリサイ派の人々や律法学者でした。「なぜ、あなたたちは徴税人 や罪人などと一緒に食べたり飲んだりするのか。」食事をともにすることは、当時 も、また現在も、生活と運命を共にすることです。また、神の前で聖なる共同体の 交わりを現すものです。その中に、徴税人、罪人とされる職業のものが加わり、ユ ダヤ人のみでなく異邦人が自由な裕福な人だけでなく奴隷とアウトロー・カースト のものが等しく加わり、そこでパンとぶどう酒によって象徴されるキリストのから だと血にあずかる交わり、これがキリストの教会の姿です。 主イエスの答え。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。わたしが 来たのは、正しい人のためではなく、罪人のために、悔い改めへと招くために来た のだ。」これは、罪人が来ることを大目に見て寛大に許容するということではあり ません。罪人のためにこそわたしは来たと語られます。罪人であることの事態を、 断罪し、取り除くことによって心を休ませる事態としてでなく、癒しを必要とし、 悔い改めへと導く愛を必要とし、名を呼んで呼びかけ、ともに食事をする仲間とな ることを必要とする事態であると認識しておられます。ここに古い革袋を引き裂く 新しい生命の力、神の愛の革命性が現されています。 さて、わたしたちの教会が建てている新しい革袋にはどのような新しいぶどう酒 が満たされることになるでしょう。主の霊のみなぎる姿を求めましょう。