ルカによる福音書6:1-11
安息日に弟子たちが麦畑に入って麦の穂を取って手でもんで食べているところを、 ファリサイ派のある人々が見咎めて、「なぜ安息日にしてはならないことをするの か」と非難したこと、安息日に会堂で片手の萎えた人を、「手を伸ばしなさい」と いって癒されたこと、これらによって、ファリサイ派の人々や律法学者は「怒り狂 って、イエスを何とかしようと話し合った」(v.11)という結果になります。主イエ スの「神の国の福音」が語られ、現実の世界で展開されるとき、いのちの回復と喜 びとともに、人間のうちにある何かと衝突します。ファリサイ派の人々が安息日を 忠実に守ろうとする情熱は、いうまでもなく、深い信仰と神への徹底した服従のし るしです。まさにその信仰において、主イエスと衝突するのです。 安息日に麦畑に入って麦の穂を摘んで食べている弟子たち、彼らは正しく安息日 を守ることができない「地の民」です。神の律法に従う正しいあり方に忠実である より、自分の欲望の方に忠実です。「なぜ安息日にしてはならないことをするのか」 という抗議に身をすくめている弟子たち。主イエスは無教養で粗野な弟子たちを叱 られたでしょうか。いや、弟子たちの側に立たれるのです。「人の子は安息日の主 である」ということばとともに。安息日の主は、天と地を創造され7日目に休まれ た主ではありません。また、イスラエルの民をエジプトの地奴隷の家から導き出し カナンの地を与えて安息を与えられた主ではありません。「人の子」、失われた者 を訪ね出すために来られ、多くの人の罪のために苦しみを受け、人々に捨てられ、 殺され、三日目に復活される「人の子・メシア」が安息日の主であるというのです。 主イエスにあって安息日は何もしないで横になっている日ではありません。非難 の視線に抗して、右手の萎えた人の手を取り、立ち上がらせ、手を伸ばし癒される 日です。救いの日、生涯に渡る安息を回復される日です。キリスト教会は、旧約の 律法による安息日、週の終わりの日の安息を週のはじめの日、日曜日に変えて守る ようになりました。その日は、主が死人の中からよみがえられた日、罪を赦し、死 の支配から立ち上がらせ、いのちの復活にあずからせてくださる安息を与えてくだ さった日だからです。安息日の主である「人の子」、主イエス・キリストは安息日 にこのように働かれます。世の終わりにいたるまで。