ルカによる福音書6:20-26
マタイでは「山上の説教」として語られていることがルカでは「平らなところに 立たれ」て、弟子たちだけでなく、エルサレムやツロ、シドンからも来た人々に人 間の生き方を説いています。ここには主イエスの思想があります。「この教えは他 に類を見ない独創的なもので、目がくらむほどの深い内容をもつ」といわれる主イ エスの教えです。マタイでは「8つの祝福」として語られていることがルカでは「 4つの幸いと4つの災い」になっていますし、またマタイでは「心の貧しい人は幸 い」「義に飢え渇いている人は幸い」となっているところが、ルカは「貧しい人は 幸い」「今、飢えている人は幸い」と精神的、内面的な欠乏というより、直接的、 現実的な不幸が問題です。「神の国はその人のもの」となっているところは、「神 の国はあなたがたのもの」二人称になっています。このように比較しながら、なぜ ルカはこのように変えたのか、どこにその意図があるのかと思いめぐらして、何が 今わたしに語られているのかとたずねることは楽しいことです。 貧しい人はさいわい、今飢えている人はさいわい、今泣いている人はさいわい、 人々に憎まれるとき、さいわい。その逆に、富み、満腹し、笑い、人々にほめられ るとき、わざわい・・・。人々は何をもって幸いとするか、何に感謝し、喜び、求 めるのかまったくの逆転。よく見ると、主イエスの「さいわい」は、「今」と「こ の世」に根拠を置くところから、「明日」と「神の国」に根拠を置くところで、幸 いと災いの逆転が起こることを教えていると言ってもいいでしょう。今この世で笑 っている人は、明日神の国で笑うことが出来るかどうか、このことを考えて笑って いるかどうか、永遠の光のもとで、満ち足り、笑い、称賛される生き方をしている かどうか反省させられます。しかし、主イエスは、もっと直接的に今飢え、今泣き、 今非難されている人に、「あなた方はさいわいだ」と呼びかけてくださいます。こ の響きをよく聞きましょう。何が今の災いを幸いに、この世の不遇を神の国の祝福 に変えてくださるのでしょう。それは、このように権威をもって神の支配をわたし たちのうちにもたらしてくださった主イエス・キリストの存在そのものにかかって います。ちょうど扇の要のように、主イエスが要となって、今日の悲しみを明日の 笑いに、今日の飢えを明日の満腹に変えてくださるのです。