10月10日
1999年10月10日

「人をさばくな」

ルカによる福音書6:37-42


 主イエスは天の父の愛をわたしたちの世界にもたらしてくださいました。では、

その愛の具体的な展開の仕方は、どのようであるか。「人を裁くな。そうすれば、

あなた方も裁かれることはない。人を在任だと定めるな。そうすれば、あなた方も

罪人だと決めつけられるとこはない。赦しなさい。そうすれば、与えられる。」単

純にして明快。見返りを求めない主体的な愛を実践する世界は、実に相対的で対等

の世界です。裁くものは裁かれる。赦さないものは赦されない。これはわたしたち

が常識としている世界とは違います。人間には正しい人間と悪い人間がいて、正し

い人間の裁きは正しく、悪い人間の裁きは正しくない。人間には高度の人間と低次

の人間がいて、低次の人間の裁きには高度の人間の裁きは計り知れないが、その裁

きには従わなければならない、人間社会はこのような常識を育ててきました。裁き

は、したがって、文化的なまた最も高度な精神的な行為の一つです。しかし、主イ

エスの人間に対する判断は違っています。裁くものは裁かれる、そのような相対的

な関係が生きているに過ぎない。だから、「人を裁くな。そうすれば、自分も裁か

れない」なのです。人を裁くこと、罪に定めることは神にその最終の権威があるこ

とであって、正邪の最終決定は人にはできません。

 主イエスの語られた同じ文章の中に、対等でない、相対的でない関係のことが語

られています。丸太とおが屑の関係、これは対等ではありません。つまり、自分の

目にある丸太と他者のの目にあるおが屑、これは全く比べものにならないほど大き

さが違いますが、それでも相手の目にあるおが屑を取らせてくださいというもので

あること、それほど自分を見る目と相手の欠点を見る目には偏りがあることを指摘

しているのです。また、「赦しなさい、そうすれば赦される。与えなさい、そうす

れば与えられる」につづいて、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどの量りをよ

くして懐に入れてもらえる」とあります。これも対等ではありません。人に与える、

赦すという小さな行為は同等の見返りがあるばかりか、はるかに大きな報いがある

というのです。これらの対等と非対等の関係について知っていたら、どんなに世界

が広く見えることでしょう。この対等と非対等を知って日々の関係の中で生かすな

ら、どんなにやわらぎと癒しが広がるでしょう。


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