ルカによる福音書6:46-49
40年近くの間わたしたちの教会が使ってきた礼拝堂での最後の礼拝。教会は礼 拝堂によって教会になるわけではありませんが、この場所でキリストの体である教 会が目に見える形で現されたことは確かです。40年間、日曜日には必ずここで礼 拝が行われ、神のことばが語られ、祈りと賛美がささげられました。ここで主の食 卓に招かれました。ここで洗礼が行われ新しい命が始まりました。ここで結婚式が 行われ、葬儀が行われました。子どもたちは幼稚園の時代を過ごし神の愛を味わい ました。モーセは40年の荒れ野の旅を振り返って、「あなたのまとう着物は古び ず、足に履いた靴もすり減らなかった」といっていますが、わたしたちの教会の歩 みもまた、主の導きにあずかって新しい礼拝の場所に向かって進んで行きます。何 という恵み。何と大きな喜び。 このときに聞くべき主のみことばは、岩の上に家を建てた人のたとえです。「わ たしを主よ主よと呼びながら、なぜわたしの言うことを聞かないのか」ということ ばにはじまって、主イエスのことばを聞いて行う者は、地面を深く掘って岩の上に 土台を置く人のようだというのです。イエスさまは大工さんでしたから、どんな家 が良い家かを良く知っています。わたしたちもこの一年間目の前で主の家の建築を 見てきました。これまでの建物と新しい建物の一番大きな違いは、実は目に見えな いところにあります。これまでの礼拝堂も、仮設の建物も、地面に石を置いて、あ るいは渠を造ってコンクリートを流し込みその上に家を建てています。新しい建物 は二階建てで約7メートルの高さですが、地中に地上の倍以上17メートルの基礎 が30本以上入っています。百年に一度の地震にも耐えるようにするためです。 ルカによる福音書は、マタイと違って岩の上に家を建てる人と砂の上に家を建て る人を対照させるのではなく、地面を深く掘って岩の上に家を建てる人と地面の上 にそのまま家を建てる人を対照させています。土台を据えるためには地面を深く掘 る必要があるのです。主よ、主よと呼んでいるだけでは、深く掘ったことにはなら ない。主のことばを聞いて行うためには、深く自分の立っているところを砕き、低 くなり、キリストに出会うまで砕かれなければならないことを教えています。こう して土台を据えられた家は洪水が押し寄せても倒れることはありません。目に見え る土台を深く据えられました。それはまた見えない教会の深く岩であるキリストの 上に据えられた土台のしるしでもありますように。