11月7日
1999年11月7日

「臓腑をつらぬく憐れみをもって」

ルカによる福音書7:11-17


 ナインの若者を死者の中から呼び戻された主イエスの物語、これを召天者記念礼

拝で聞きます。すでに死んでしまった若者に対して主は「若者よ、起きなさい」と

呼びかけられます。

 イエスと弟子たち、また大勢の群衆がナインの町の門のところで葬列に出会いま

す。「ある母親の一人息子が死んで棺がかつぎ出されるところだった。その母親は

やもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」とあります。主イエスはそ

こに介入されるのです。全く未知の人々の悲しみの輪に入って行き、死の悲しみを

共有するためには、同等かそれ以上の悲しみや苦しみを持ち合わせていなければな

りません。主はこの母親を見て「あわれに思い『もう泣かなくてもよい』といわれ

た」と記されています。この「あわれに思う」という言葉はめずらしい言葉で、「

内蔵」を表す言葉の動詞形です。日本語にはこんな言葉はありませんが、激しい感

情の動きは、心臓が飛び出しそうになったり、はらわたが煮えくり返ったりすると

いいますからニュアンスは伝わるでしょう。内蔵が揺さぶられるような思い、臓腑

を貫く憐れみをもって、主イエスは母親に近づいているのです。

 人間の死はすべての人に定まっていることです。死は受け容れるしかありません。

たとえ今日癒されたとしても明日は死にます。若い者も年老いたものもやがて死ぬ

という現実を前にしては同じことです。このように人間の死という影の下で現実を

見ると、すべてが平板でどの死も同じことになります。主がこの母の一人息子の死

を見たとき、「あきらめなさい、母親よ。この死の事実を一日も早く受け容れなさ

い」と語ったのではありません。主は、この事態を誰にも起こる出来事と見ていま

せん。そうではなく、この多くの死を経験してきた母親の特別な出来事と捉えてい

ます。一人一人の死を心揺さぶられる悲しい出来事として共有し、そこに最も根本

的な癒しと救いがなければならないと思ってくださっています。

 主は棺に近づき、手を触れ、若者に呼びかけます。死んでいる者が、どこで聞く

というのでしょうか。しかし主は「起きよ」と呼びかけられます。そして、その声

は肉体の生死を超えて、若者の耳に届くのです。暗い死の支配から若者を取り戻し、

母親の手に戻されるのです。このようにナインの若者に呼びかけてくださった主の

声は、生きていながら死の支配の中にいるわたしたちの魂にも届いています。


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