11月14日
1999年11月14日

「来るべき方は誰か」

ルカによる福音書7:18-35


 「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりません

か?」バプテストのヨハネが弟子たちを遣わしてイエスに問わせた問いは、そこで

何が問われているのでしょうか。

 ヨハネは素人の人としてメシア、来るべき方を待望する人ではありません。荒れ

野の修行生活、人々に悔い改めの洗礼を施す活動の中で、来るべき方がどのような

方であるかを最もよく知り、期待し、人々に語ってきた人です。「わたしは水で洗

礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを

解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:16)

と語った人でした。ヨハネの問いの背後に、主イエスに対する失望と戸惑いがあっ

たと解釈する人々と、むしろこれをヨハネが自分の弟子たちを訓練するためだった

と解釈する人々がいます。確かに、ヨハネが主イエスの働きに対して疑いを抱き、

半信半疑であったなら、弟子を遣わして当の本人に、「あなたこそ来るべき方です

か?」などと問わせることはしないでしょう。ヨハネはきらびやかに着飾った世界

や暴力的な権力を振り回すような世界に真の救い主が来ると考えるほど単純なメッ

セージを語った人ではありません。自らの確信をもっと確かにするため、また生涯

かけて語ってきたことを、弟子たちも確信しその到来を待ち望むようにさせるため

に、この問いを問わせたと考えると、ヨハネの問いはわたしたちにも身近なものに

なります。主イエスを信じ主のものとされたわたしたちも、このヨハネの問いを内

に持ちつつ、この世の終わりに向かって生きているからです。

 主イエスの答え、「行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない

人は見え、足の不自由な人は歩き、・・・死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ

知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これは主イエスが行っ

た数々の奇跡を並べ挙げてヨハネを納得させようとしているのではありません。数

々の奇跡は並べれば並べるほど虚しく見えてくることがあります。ここで伝えよう

としていることは、預言者イザヤが預言したメシアの支配の状況が現実になってい

ることを知らせ、それが起こっている世界はまことに取るに足らない小さな貧しい

人々の世界であること、その世界の片隅にこそ神の最終決定的な到来の現れを見る

ことができることを明らかにしています。まさに神の支配の喜ばしいおとずれは細

部に宿るのです。


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