ルカによる福音書8:16-25
ともし火は燭台におくべきだという主イエスのたとえ、など、脈絡のない雑多な 出来事が羅列されている感じがしますが、それらの中にある鍵の言葉をたどってい くと一本の線が貫いているのが分かります。「どう聞くべきかに注意しなさい」( v.18)、「神の言葉を聞いて行う人・・」(v.21)、「あなた方の信仰は どこにあるのか」(v.25)、これらの言葉を軸にそれぞれの話を読むと、そこ から、主イエスと共に主の言葉を信じて旅をする信仰共同体のありようについての すすめが深い洞察をもって語られています。 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人は いない。入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く」のはあまりにも当然 の話です。暗い夜を小さな灯火ですごしたガリラヤの人たちにとって、まことに身 近なことだったでしょう。しかし、その光がみ言葉の光、福音の光だとどうでしょ う。主の深い愛がわたしたちの心を暖かく照らす光であることに気づき始めるとた だちに、その光はこの世の誤解と無理解、無関心の闇に押し返されるようなものと なることに気づかない人はいるでしょうか。そして、その光を自分の中だけのこと にして、寝台の下に隠しておきたいと願う気持ちも珍しいことではないでしょう。 しかし主は、「どう聞くべきかに注意しなさい」と言われるのです。あなたが聞い た言葉は、あなたの光ではなく主のみ言葉の光です。あなたの聞いた喜びや感謝は また光となって多くの人を照らす、と。 主イエスの母や兄弟たちがイエスに会いに来て、群衆のために近づくことができ ず、外で立っていたとき、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行 う人たちのことである」と語られたこと・・・。ここには、肉の関係のものとみ言 葉と霊の関係のものの二つのグループがあります。人は他者との関係なしには生き られませんが、最も信頼に値し、支えられ、支える関係は何であるのか、この問い は生涯を貫く大きな問いでもあり、日常的な問いでもあります。主イエスは、どち らも大切、などと普通の答えはされません。「神の言葉を聞いて行う人」、これが この世のどの親しい関係よりも親しく近い関係であることを明らかにされます。み 言葉を聞いて行うところから来る関係が、より根源的で、現実的な肉親の関係を救 済するともいえます。だとすると、首都共にいて主の言葉を聞き、そこから生きる ことがどれほど幸いなことでしょう。