ルカによる福音書8:40-56
ベツレヘムの馬小屋に東の博士たち、・・・毎年繰り返されるクリスマスの情景。 しかし、わたしたちがクリスマスの喜びと興奮に呼び戻されるのは、生きて働く主 イエス・キリストご自身です。洗礼を受ける事態、会堂建築が進行していく事態、 そのただ中にあるものが、わたしたちをいのちへと呼び覚まし、感謝をもって新し い思いで主を喜び迎えさせてくださいます。 旅から帰ってきた主イエスを喜んで迎えたのは、おなじみの旧い日常の生活です。 重い病気のために死にかかっている娘のために、会堂長ヤイロはイエスの足下に跪 き、「どうか自分の家に来て娘をいやしていただきたい」と懇願しています。これ は大きな危険をはらんだ期待と信仰です。大きな失望と挫折にいたることが目に見 えている信仰、あるいは、狂的な熱情に走る危険を抱えた信仰がここにあります。 主イエスを底知れない暗闇、深淵に引き込もうとしています。主は、何と、この深 淵に向かって、進んで足を踏み出されるのです。 主イエスの進まれるのを妨げたのは、もう一つの深淵です。12年間流血のため に苦しんだ女性が主イエスに近づき、後ろから衣の房にふれたところ、たちどころ に出血が止まったことを感じました。この女性は、すべてのものを奪い尽くした自 分の病気を癒していただくために、主イエスの衣の房とそれに込められた力とだけ を必要としていました。そして、それは想像通りの効果を現しました。ここに人間 の暗闇が潜んでいます。しかし、主はこの女性の信仰をそこにとどめておくことを 許しません。生きた主イエスとの交わりへと呼び返されます。「あなたの信仰があ なたを救った。安心して生きなさい」、この言葉と共に行かせるのです。 ヤイロの家から使いの者が来て、「娘さんはなくなられました。もう先生に来て いただくには及びません」といいます。手遅れになったのです。と同時に、ヤイロ の危険な期待と企ても終わったということです。しかし、主イエスはここからもっ と先に進まれるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」「娘は死んだの ではない。眠っているだけだ。」人が終わりと見ている事態は主には終わりではあ りません。 人が主イエスに対して抱いている期待や信仰を、主は消してあなどったり退けた りはされません。しかし、主がそれに答えられるのは、わたしたちの信仰の量に応 じてなどということでは全くない。わたしたちの思いをはるかに超えたところで働 いておられることがわかります。