12月19日
1999年12月19日

「いのちへと呼び覚ます声」

ルカによる福音書8:40-56


 ベツレヘムの馬小屋に東の博士たち、・・・毎年繰り返されるクリスマスの情景。

しかし、わたしたちがクリスマスの喜びと興奮に呼び戻されるのは、生きて働く主

イエス・キリストご自身です。洗礼を受ける事態、会堂建築が進行していく事態、

そのただ中にあるものが、わたしたちをいのちへと呼び覚まし、感謝をもって新し

い思いで主を喜び迎えさせてくださいます。

 旅から帰ってきた主イエスを喜んで迎えたのは、おなじみの旧い日常の生活です。

重い病気のために死にかかっている娘のために、会堂長ヤイロはイエスの足下に跪

き、「どうか自分の家に来て娘をいやしていただきたい」と懇願しています。これ

は大きな危険をはらんだ期待と信仰です。大きな失望と挫折にいたることが目に見

えている信仰、あるいは、狂的な熱情に走る危険を抱えた信仰がここにあります。

主イエスを底知れない暗闇、深淵に引き込もうとしています。主は、何と、この深

淵に向かって、進んで足を踏み出されるのです。

 主イエスの進まれるのを妨げたのは、もう一つの深淵です。12年間流血のため

に苦しんだ女性が主イエスに近づき、後ろから衣の房にふれたところ、たちどころ

に出血が止まったことを感じました。この女性は、すべてのものを奪い尽くした自

分の病気を癒していただくために、主イエスの衣の房とそれに込められた力とだけ

を必要としていました。そして、それは想像通りの効果を現しました。ここに人間

の暗闇が潜んでいます。しかし、主はこの女性の信仰をそこにとどめておくことを

許しません。生きた主イエスとの交わりへと呼び返されます。「あなたの信仰があ

なたを救った。安心して生きなさい」、この言葉と共に行かせるのです。

 ヤイロの家から使いの者が来て、「娘さんはなくなられました。もう先生に来て

いただくには及びません」といいます。手遅れになったのです。と同時に、ヤイロ

の危険な期待と企ても終わったということです。しかし、主イエスはここからもっ

と先に進まれるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」「娘は死んだの

ではない。眠っているだけだ。」人が終わりと見ている事態は主には終わりではあ

りません。

 人が主イエスに対して抱いている期待や信仰を、主は消してあなどったり退けた

りはされません。しかし、主がそれに答えられるのは、わたしたちの信仰の量に応

じてなどということでは全くない。わたしたちの思いをはるかに超えたところで働

いておられることがわかります。


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